共にいてくださる神

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聖書の言葉

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

新約聖書 マタイによる福音書 28章19~20節

弓矢健児によるメッセージ

まだ、わたしが幼稚園の頃だったと思います。その当時、わたしの家は商売をしていました。その関係で両親が配達や集金に出かけることがよくありました。そんな時、一人で留守番をしなければならないことがありました。もちろん、そんなに長い時間ではなかったと思います。たぶん30分か、40分ほどだったと思います。大人の時間感覚からすると本当に短い時間です。しかし、その時、わたしは一人で留守番をするのが本当に嫌でした。とても不安でした。

配達や集金に出かける時、親は必ず店のドアを閉め、カーテンを閉め、鍵をかけて出かけました。しかし、その中で一人で待つ時間が、わたしにはとても長く感じたのです。そんな時、わたしはいつも店のガラス戸の前に立って、時々カーテンを開いては外を見て、「早く帰ってこないかー」と、心待ちにしていました。そして、親が帰って来ると本当に心がホッとして、嬉しくなったことを覚えています。

わたしたちは一人でいる時、不安や寂しさを感じることがあります。そもそも人間は独りで生きる存在ではないからです。旧約聖書の創世記1章27節を見ると、「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とあります。同じく創世記2章18節でも、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とあります。人間は独りではなく、共に生きる存在として造られたのです。

もちろん、わたしたちは時に一人でいたいと思うことがあるでしょう。一人で静かな時間、落ち着いた時間を持ちたいと願うことがあります。そういう時間もわたしたちには大切です。けれども、逆に言えば、わたしたちは独りではないからこそ、一人の時間を楽しむことができるのです。共にいてくれる人がいるからこそ、安心して一人の時間を持つことができます。

わたしたちがどこにいても、どんな時も共にいてくれる存在、そういう存在がわたしたちには必要です。楽しい時、嬉しい時、その楽しさを、嬉しさを一緒になって喜んでくれる存在が必要です。また、悲しい時、辛い時、その悲しさを、辛さを一緒になって悲しんでくれる存在が必要です。

しかし、そんな存在が本当にいるのでしょうか。また、いるとするならば、一体どこにいるのでしょうか。もちろん、家族や友人がそういう存在になってくれることがあります。家族は自分の一番身近にいて共にいてくれる存在です。また、友人も大切な存在です。何でも相談できる友人、いざとなったら自分を助けてくれる友人は心強い存在です。けれども、家族も友人も限界があります。いくら家族であっても、親しい友人であっても、どんな時も共にいるということには限界があります。

複雑な家庭環境の中で家族の愛を十分に経験することができなかった方もいます。大切な家族や友人を失ってしまった方もいます。失業したり、病気になったり、いろんな原因で、社会とのつながり、人と人とのつながりを失ってしまった方もいます。今の日本ではそういう方が増えていると言われます。

「人が独りでいるのは良くない」と言って、神が愛する家族や友人を与えてくださったにも関わらず、人間の罪によって、この世界には孤独や孤立の現実があります。それによって、深い悲しみや不安を抱えている方がたくさんいます。だからこそ神は、イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったのです。

聖書はイエス・キリストをインマヌエルだと教えています。インマヌエルとは、「神はわたしたちと共におられる」という意味です。その名の通り、イエス・キリストはどんな時もわたしたちと共にいてくださるお方です。

復活なさったイエス・キリストは天に昇られる前、弟子たちにおっしゃいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

イエス・キリストを信じるということは、どんな時もイエス・キリストが共にいてくださることを信じるという事でもあります。わたしたちが独りでいる時も、仲間といる時も、悲しんでいる時も、喜んでいるときも、イエスは共にいてくださいます。イエスは、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣いてくださるお方です。

あなたは決して独りではありません。真の神イエス・キリストは、いつも、あなたと共にいてくださいます。

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