聖書の言葉
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
旧約聖書 創世記 1章26~27節
吉田実によるメッセージ
私は神戸長田教会の牧師を務めさせていただいていますけれども、神戸長田教会は今年(2016年)で創立90周年を迎えました。そして90周年の記念行事として、高齢者の方々のことを特に覚えた「カフェ」のような「居場所づくり」を始めたいと願っておりまして、現在その準備を進めています。10年後には必要な介護を受けることが出来ない、いわゆる「介護難民」になる方が43万人を超えるだろうと言われていますけれども、そういう現実がある中で、地域の高齢者の皆様が少しでも長く住み慣れた町で共に暮らすことが出来ますように、そのお手伝いを少しでもできたらと願っています。
そしてその際に、高齢者の皆様ことを特に意識してはいますけれども、高齢者だけが集う場所ではなくて、いろんな人たちがそこで出会って触れ合える場所になれたらいいのになと考えています。教会ではすでに幼い子供たちの集いや知的障がいを持つ子供たちの集いなどを開催していますけれども、そういう子供たちや、お手伝いをしてくださる青年、壮年の人たちとも触れ合える場所にしたいと考えまして、今具体的なことを計画しているところです。
私がそういうことを始めたいと願うようになりました一つのきっかけは、富山県にあります「このゆびとーまれ」というデイケアハウスの特集をテレビで見たことにあります。「このゆびとーまれ」は1993年に、富山赤十字病院を退職した3人の看護師さんたちによってはじめられました。その看護師さんの一人である惣万さんは、病院の中で一所懸命高齢者の方々のお世話をいたしましても、最後は「家に帰りたい」「畳の上で死にたい」と涙ながらに訴える方々のお姿を見て、何とかそういう願いをかなえて差し上げたいと願って、仲間と共に「このゆびとーまれ」を始めたのだそうです。また惣万さんは、以前おとずれた老人ホームでお年寄りたちが話もせずにただ一日を過ごしている姿を見て、強い違和感を覚えたそうです。そのことがきっかけとなって、お年寄りだけではなく子供たちや障がい者も一緒に過ごすことが出来るような場所を造ろうと考えたのだそうです。「子供と一緒に笑ったり、怒ったり、歌を歌ったりすることはどんなリハビリよりもよい。子供がいればリハビリなんてする必要がない」と惣万さんはおっしゃっています。
私が「このゆびとーまれ」の特集番組を見た時も、お年寄りの方々と子どもたちが大家族のように自然に触れ合っている姿がとても印象に残りました。ある認知症のお年寄りは、御自身のことを利用者ではなくて「私は子供たちのためにこの施設で働くスタッフである」という自覚を持って毎日出勤してこられるそうです。また足が不自由で横になっておられたあるお年寄りは、近くで寝ている幼子が布団をはねとばしてしまったのを見て、はって行ってそのふとんをかけてあげていました。またダウン症と思える少年が、配膳などを手伝っていました。そんな風に、一方的にお世話されるだけではなくて、自分も出来ることを通して誰かのお世話をしながら、お互いに助け合い励まし合いながら共に生きているその姿が、とても素晴らしいと私は思いました。そして本来、人間はそうやっていろんな人たちが共に生きるものなのだということを、強く感じたのです。
聖書のはじめには、神様が、この世界のすべてを何もないところから造られたということ、そして特に人間を御自身にかたどって造られた、ということが書かれています。そしてその際に、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と書かれています。聖書の神様は唯一の神様なのですが、なぜか「我々」と複数形で書かれているのです。それは神様の威厳を表すための一つの表現なのかもしれません。でも、この箇所だけでは分からないのですが、聖書全体を読みますと、聖書の神様は唯一の神様ですけれども、一人ぼっちの孤独な神様ではなくて、父・子・聖霊なる神様が愛によって一つに結ばれた、三位一体の神様であることが分かります。ということは、そういう神様にかたどって、神様に似た者として造られた人間も、一人ぼっちで生きるのではなくて「共同体」を形成しながら共に生きる者として最初から造られたということがわかります。しかも「男と女に造られた」訳ですから、様々な違いのある者同士が支え合い、仕え合って、共に生きるように造られたと言えます。そういう意味では、同じような人たちだけが集まるよりも、いろんな人たちが一緒に集まって共に生きる方が、神にかたどって造られた人間らしい生き方であると言えるのではないでしょうか。実際にいろんな違いを持つ人たちが一緒に集まれば、もめ事も起こると思います。でも、本来人間の「違い」は「対立」を生むものではなくて、神にかたどって造られた人間としての「豊かさ」を生むはずです。そういう者として最初から造られたからです。現実は厳しいかもしれませんが、そう信じて踏み出すところから始まることがきっとあるに違いない。私はそう信じています。