愛がなければ、わたしに益はない
宮﨑契一
- 那覇教会 牧師
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全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
新約聖書 コリントの信徒への手紙一 13章3節
クリスチャンの詩人で八木重吉という方がおられます。この番組でも何度か取り上げられたことがあるかもしれません。八木重吉は、1927年に29歳という若さで亡くなりました。彼は当時の高等師範学校に通っていた時代に、一人の同級生のクリスチャンとの出会いが与えられることになります。
しかし、その友人が病気で急死するということになりました。友人の死にショックを受けた重吉は、聖書を精読し始めるようになります。そして、やがて教会に通い始めるようになって、洗礼を受けてクリスチャンになりました。彼が21歳の時です。
もともと、重吉自身は健康な人でした。しかし、洗礼を受けた年に重度の肺炎に掛かってしまって、しばらく入院をすることも経験します。やがて、結婚をした翌年から、重吉はこの時既に学校の教師として働いていましたが、彼は同時に活発に詩を書き始めるようになります。そして、家族との生活や詩を書き続ける中で、キリストによる十字架の罪の赦しを体験し、キリストに委ねて生きるという平安な信仰へと導かれて行くことになりました。しかし、その重吉をやがて再び病が襲います。彼は今度は肺結核になって、妻と二人の子供たちを残して、29歳でその生涯を閉じることになりました。
昨年、たまたまこの八木重吉の詩集を見ていましたら、一つの詩に出会いました。それは「仕事」という名前の詩です。その詩を読んでみたいと思います。
信ずること
キリストの名を呼ぶこと
人をゆるし出来るかぎり愛すること
それを私の一番よい仕事としたい
信じること、キリストの名を呼ぶこと、人をゆるし出来るかぎり愛すること、それを私の一番よい仕事としたい。これが自分にとっての仕事だと彼は言います。
信じることとか、愛すること、私たちはそういうことを自分たちの仕事にする、とはあまり考えないのではないでしょうか。たとえば自分の生活のためとか、食べていくために仕事をするとか、そういうことのためなら必死になって毎日生きているかもしれません。私たちの生活の現実です。しかし、ここで八木重吉が歌っていることは、そういうことを超えたものです。信じることとか、愛することとか、そういう目に見えるものを超えたところに、彼は自分の生きがいを見いだしているのです。
聖書にこういう言葉があります。「全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」
ここでも「愛がなければ、わたしに何の益もない。」と言われています。たとえ、全財産を貧しい人たちのために使い尽くそうとしても、愛がなければ益は無い、こう言われるのです。全財産を貧しい人のために使う、私たちはこういうことを見ると、そこには愛がある、すごい、そう思うかもしれません。でもそれでも、愛がなければ、と言われるのです。
また、わが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、益は無い、こうも言われます。わが身を死に引き渡す、今度は、貧しい人たちのために財産を使う以上のことが言われています。しかし、それでも同じです。愛がなければ、と言われます。結局は自分の名誉のため、自分の誇りのため、自分自身の栄光のために自分の命を死に引き渡す、ことがあるというのです。そこには愛は見られないのだと思います。むしろ、恐ろしいまでに、ただ自分ということがあるだけです。
本当の愛は、人間の内側から出て来るものではありません。財産を貧しい人たちのために使い尽くしたり、自らの命を死に引き渡す、そういう人間の崇高に見える行いでさえ、愛が無ければ、と言われるのです。愛は、私たちの中にあるものではありません。むしろ、外から与えられるものです。聖書は、その愛について私たちに教えています。
神の愛、それはイエス・キリストにおいて現されています。私たち人間の内側にある罪(ただ自分のために生きる思い)をつぐなうため、いけにえとして、神はイエスを与えてくださいました。神はイエスを、私たちの罪をつぐなういけにえとして、十字架につけられました。ここに愛がある、聖書にはそう書かれています。
御自分の愛するイエスさえも罪人のためにお与える神は、どのような人も愛される方です。どんなに人生で失敗をした人も、どんな過ちを犯した人も神は愛されます。その人のためにもイエスは身代わりとなって死んでくださったのです。そして、この愛を受け取った人は、愛に生きる者に造り変えられます。イエスを信じるということは、この本当の愛を受け取って、私の生き方が変えられるということです。
ラジオを聞いておられるあなたの生きがいは何でしょうか。あなたにとっての仕事は何でしょうが。八木重吉は、学校の教師をやっていた人でした。けれども彼は、学校の教師が自分の仕事だ、とは言いません。あるいは、詩を書くことが自分の仕事だ、こう言ったのでもありませんでした。
信ずること、キリストの名を呼ぶこと、人をゆるし出来るかぎり愛すること、それをわたしの一番良い仕事にしたい、彼はこう言ったのです。八木重吉は若くして肺の病に掛かって、死に向き合わされた人です。死に向き合わされた人は、自分の人生にとって何が一番大切なのか、そのことを考えます。
それが、信じること、キリストを求めること、人を愛すること、でした。これはイエス・キリストを信じる者に約束されている生き方です。