父親の眼差し

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聖書の言葉

エルサレムよ、あなたの心の悪を洗い去って救われよ。いつまで、あなたはその胸によこしまな思いを宿しているのか。

旧約聖書 エレミヤ書 4章14節

山中恵一によるメッセージ

2015年9月に、我が家に長男が与えられました。1月に2回、「父親の眼差し」というシリーズで、新米お父さんとなることで、新たに与えられた、御言葉の感動をみなさまにお話させて頂きました。今月も引き続き「父親の眼差し」というテーマでお話をしたいと思います。

さて、私は家で、子供の入浴係を担当させて頂いています。この収録の2週間ほど前まで、ウチの子供は、お風呂が大好きでした。ところがですね、最近、体を洗われるのを嫌がって、お風呂場でよく泣くようになってきたんですね。まぁ、子供の立場からすれば、寒い洗い場で、泡まみれのもみくちゃにされて、お湯に中々いれてもらえないわけです。湯船に入れば、天国のような居心地なのに、そこに、中々入れてもらえない。

私だって、嫌がらせで、湯船に入れるのを勿体つけているわけではありません。ウチの子は、肌が弱いので、ちゃんとキレイにしてあげないと、本人のためによくありません。それに、赤ちゃんは新陳代謝が活発なので、大人以上に垢が出て、汚れが付きます。放っておけば病気になるかもしれない。子供のためだけではありません。親にとっても、子供が汚れたままというのは、感覚的に嫌なものです。よだれで手や口元がヌルヌルしっぱなし。満身の笑顔で、よだれだらけの手を伸ばして来るんですけど、スーツを着ているときなんかは、ちょっと触って欲しくありません。おむつをめくれば、どこかにウンチの拭き残しがあるかもしれない。かわいいわが子とはいえ、一緒に生活する上で余りにも汚れているのは、困りものです。

親のほうは、子供を大切に思って、なんとかキレイにしたいと思うのですけれど、そんな親心は4カ月の子供にわかるはずもありません。湯船という天国に至るためには、体を洗わなくちゃいけない、ということが、まったく分からないんですね。「風呂にははいりたいけど、洗われるのは嫌だ~」そんな具合に、声のよく響くお風呂の中で、ギャンギャンと泣くわけです。そんな、日常のありふれた体験の中で、あらためて、「神様と私の関係も、案外おなじようなことがあるのではないか?」そんなことを思わされました。

お読みしたエレミヤ書には、このようにありました。「あなたの心の悪を洗い去って救われよ。いつまで、あなたはその胸に、よこしまな思いを宿しているのか。」神様の目に「悪」と映る事柄。聖書は、それを「罪」と呼びます。罪に汚れた心をキレイに洗う。そこに救いがあると聖書は教えています。天国という湯船に浸かるには、心をキレイにされないとダメだと言うんですね。もちろん、それは嫌がらせで、勿体ぶってそう言っているわけではありません。子供を思う親のように、神様は私たちをキレイにしたいんです。心が汚れたままでいることは、私たちにとって良くないことだからです。罪というものは、聖書の他の箇所で、病気のようにして描かれます。放ったらかしておくならば、致命的な問題となるんですね。また、罪という汚れは、神様にとって、不快以外の何ものでもありません。子供はかわいいのですけれど、ヨダレは拭いてもらわないと困るんですね。神様は、私たちを洗ってキレイにしたいのです。神様と私達との関係をギクシャクさせている罪を洗い流したいんです。そして、お互いに晴れ晴れとした気持ちで、天国という至福のときを味わおうと願っておられるんですね。

ところが、赤ちゃんが自分を洗うことができないように、私達も自分で自分をキレイにすることができません。ヨダレまみれの手で、顔を拭いてもヨダレが顔中に広がるばかりで、全然キレイにならないのと同じです。汚れた心で、心をキレイにしようとしても、上手くはいかないんですね。そんな私たちの罪をキレイに洗い流すために、神様は、まったく汚れていないまっさらな心を持つ、御自分の独り子イエス様を、私たちに与えてくださいました。このイエス様のお世話を受けるなら、私たちはキレイになることができます。

心を汚す罪がすべてキレイにされて、晴れ晴れと、清々しく生きていくことができる人生。神様は、あなたといっしょに、そんな素晴らしい日々を送ることを願っておられます。ぜひ、教会に来て頂き、イエス様によって、心がキレイにされることの喜びを味わって頂きたいと思います。そして、あなたを心から大切に思われる神様の親心に触れて頂きたいと思います。

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