喜び

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章22~23節

石原知弘によるメッセージ

私が以前オランダにいたときに学んだことの一つが「禁欲と喜び」ということで、先週と今日、「禁欲と喜び」というテーマでお話ししています。前回は「禁欲」についてお話しました。今日は、「喜び」についてお話してみたいと思います。

皆さんには、キリスト教に喜びというイメージがあるでしょうか。「禁欲的」というイメージの方が一般的には強いのかもしれませんが、クリスチャンには、信仰とは喜びであるという実感があると思います。先週、禁欲と喜びはブレーキとアクセルのようなものと言いました。喜びはクリスチャンの力であり、信仰生活を歩んでいくためのアクセルのようなものと言うことができるのではないかと思います。聖書には、喜びという言葉があふれています。今お読みした聖書の箇所にも、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び」とありました。クリスチャンの心と生活の中には、神さまの霊が、喜びという実を結んでくださるのです。

そして、この喜びは、イエス・キリストを信じる喜びです。イエスさまがお生まれになったクリスマスのとき、羊飼いの前に現れた天使は、「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言いました。イエスさまが救い主として、この闇のような世界に来てくださったことの喜び、そして、罪人であるこの私を赦し、救ってくださった喜びです。この喜びがアクセルとなって、クリスチャンは信仰生活を歩んでいくことができるのです。

この救いの喜びというものを、ぜひ多くの方に知っていただきたいと思うのですが、今日は、その喜びには、さらに先があるということをお話したいと思います。イエスさまによる救いの喜びというと、この世の中はいやなことばかりだけれど、とにかくイエスさまだけは喜びで、イエスさまを見つめているときだけが幸せ、というふうに受け取られることがあるかもしれません。確かにイエスさまは私たちの喜びですが、クリスチャンは同時に、この世界をも、喜びをもって見つめ、生きることができるようになるのです。この世界は本来、神さまが造られた良い世界だからです。聖書にも、「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです」と書かれています。イエスさまによって救われるなら、この世界は神さまに造られたよいものであるということも分かるようになるのです。

このような喜びを力強く語った人に、20世紀のオランダで活躍したファン・ルーラーという神学者がいます。ファン・ルーラーは、サッカーが好きだったことから、オランダの有名なサッカーチームの名前を出しながら、アヤックスとフェイエノールトを楽しむことはクリスチャンにとって大事なこと、と言いました。この世界を喜び、この人生を楽しむということです。

そして、ファン・ルーラーがこのように喜びを強調するときの独特な表現の一つに、「喜びは愛以上である」という言葉があります。ファン・ルーラーの文章に繰り返し出てくるのですが、「永遠の命」という言葉を解説して記している文章をご紹介したいと思います。「永遠の命の最も大きな特徴は、愛です。愛はいつまでも残ると、聖書には書かれています。愛は永遠の命そのものです。しかし、永遠の命には、その愛にもまさる何かがあるようにわたしは感じています。それは、喜びです。神さまご自身を喜ぶこと、神さまのすべての御業を喜ぶことです。また、自分自身を喜ぶこと、すべての隣人を喜ぶこと、この世界のあらゆる現実を喜ぶことです。わたしには、この喜びこそ永遠の命の最高の姿であるように思えます。永遠の命を生きるとき、これまで過ごしてきたすべての時間を振り返りながら、わたしたちはアーメンと言うのです。すべての涙はぬぐい去られ、こう言うことができるのです。「夢でも幻でもなかった。すべては神さまの御業であったのだ」わたしたちは、永遠の命を生きるからといって、この地上の生活から目をそらしたりしません。むしろ反対に、よく見るのです。よく見ることができるようになっているはずです。わたしたちの目はもはや涙でかすんではいないのですから」。

このように喜びを語るファン・ルーラーは、決して単なる楽観的な神学者ではありませんでした。若いときから心臓の病気と戦い、そのためか精神的に落ち込むようなことも少なくなかったと言われています。最後は心臓発作のために62歳で世を去りました。そういう人生の中でなお、世界と人生を楽しむ喜びを知り、その喜びを語ったのでした。ファン・ルーラー自身にとって、喜びはまさにアクセルでした。そのアクセルは、平坦な道をただ勢いよく走るためのアクセルというよりも、険しい上り坂をのぼっていくためのアクセルであったように思います。

そのようなファン・ルーラーの語った喜びですが、同時にふと、この喜びは逆にブレーキと考えてもいいのかなと思いました。それは、ブレーキを踏んで、車を降りて、周りに広がる景色やその世界を存分に楽しむということです。ただまっすぐ進むドライブだけが信仰生活なのだと考えるのではなく、ときには車を止めて、今、自分がいる場所をしっかりと見つめ、この世界を喜び楽しむということもいいのではないかと思います。この世界を、ただ通過していくだけの場所とするのは、あまりにもったいないことです。ここは、私たちが喜び楽しむようにと、神さまがお造りくださった世界なのです。

関連する番組