父親の眼差し 独り子を差し出す愛
山中恵一
- 東京恩寵教会 協力牧師
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神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
新約聖書 ヨハネによる福音書 3章16節
2015年より、この「キリストへの時間」のスタッフとなりました山中恵一と申します。今年はスタッフ2年目ということで、少し出番が増えましたので、番組をお聞きの皆さま、あらためて、本年もよろしくお願いいたします。
さて、昨年の9月に、我が家に初めての子どもが与えられました。今日のお話は「父親の眼差し」というタイトルなのですが、これは「父なる神様の眼差し」というのではなくて、新しく父親となった私、山中恵一の目線、という意味です。
聖書は、この世界を造られた神様が、私たちの父親となってくださるのだ、と教えます。父なる神様と自分を重ねるというのは、おそれ多いことですけれど、それでも、自分が父親となることで、今までに聴いてきた聖書の言葉が、また、違う響き方をするようになったなぁ、と感じています。
そこで、公共の電波ではありますが、我が家の息子ののろけ話といっしょに、せっかく与えられた、この新鮮な聖書への眼差しを、みなさんと共に分かち合いたい、こう思いまして「父親の眼差し」というタイトルで、何度かお話をしようかと考えています。
幸いなことに、私は、多忙な時期にもかかわらず、妻の出産に立ち会うことが許されました。その時の光景は、いや、本当に、壮絶な場というか、ひとつの命が産み落とされるまでに、ここまでの痛みが、エネルギーが、祈りが必要なのか、と思わされる、そんな時間でした。しわくちゃで真っ赤な、その新しい命が顔をだした時、ただ、単純な感動、「あぁ、本当によかった!」という感動が、涙と共に胸にこみ上げてきました。
聖書は、言います。私たちを愛する神様の愛は、御自分の独り子を差し出すほどの愛なのだ、と。つい先月に、教会で祝われたクリスマス。そこでは、神の独り子が、私たちの救い主となられたことがお祝いされました。クリスマスは、めでたいのですけれども、赤ちゃんとして生まれたイエス様をこの先に待っている過酷な使命を思うと、背筋を正されるような、そういう祝い事がクリスマスではないかと思います。イエス様を待つ、過酷な使命。それは、罪人の身代わりとしてなされる十字架の使命です。私と言う人間が、神様に対して追っているすべての汚点を肩代わりするため、そのための十字架です。
この身代わりの十字架を全うするために、神は、独り子を、人間の赤ん坊として世にお与えになられました。
私は、小さい頃から教会に通っていましたので、今、言ったようなことは、もう、何度となく聴いてきました。しかし、今、あらためて、自分の子どもを目の前に置いて、御言葉に聴くと、これは、本当にとんでもないことだなぁ、つくづく思わされるのです。私にはとても真似できません。立派な人物のためであっても、我が子を犠牲になどできませんけれども、神様は、愛する御自分の子どもを、罪深く、汚らわしい罪人のために与えてくださいました。それは、罪人の身代わりにわが子を十字架へと差し出された、ということです。とんでもないことです。
それくらい、私という人間は、神様から大切にされている、というんですね。なんとも不思議な愛です。何にも代え難いわが子と、私たち罪人を置き換えてくださる、神様はそのような御方である。不思議ですけれども、御言葉が指し示す事実です。神様の愛を伝えようと思ったら、これ以外にない、という表現が、「その独り子をお与えになるほどの愛」です。
この愛に包まれて、私の子どもは生まれてきました。そのことに本当に、安心を与えられます。
この愛に包まれて、自分の家庭は育まれていきます。これも、本当に、安心を与えられます。
新しい1週間。あなたには、この大きな愛が差し出されています。
あるいは、新しく始まったこの1年にも、この大きな愛が差し出されています。
神様の独り子、イエス・キリストが確かに自分の救い主として与えられたのだということを、味わっていただきたいと思います。どうか、この独り子に神様の愛が込められていることを信じて、その愛を受け取って、安らかな1年をお過ごしくださいませ。