マリアから見た処女降誕

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聖書の言葉

「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

新約聖書 ルカによる福音書 1章36~37節

岩崎謙によるメッセージ

クリスマスは、「不思議だなぁ」と驚くときです。驚かなくてもすむような理屈をひねりだすのではなく、また、毎年語られるほぼ同じメッセージに慣れることなく、毎年「不思議だなぁ」と驚き続けることがクリスマスの醍醐味です。前回に引き続き、処女降誕と呼ばれている出来事に思いを向けます。今回は、マリアの立場で考えてみます。

マリアは、処女降誕のお告げを天使ガブリエルから聞いたとき、戸惑い、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えています。それなのにマリアが信じることができたのは、預言の成就に加えて、もう一つ特別なことがありました。それは、マリアの親類エリサベトの存在です。

彼女のことは、「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」と記されています。マリアがよく知っているエリサベトの家庭には、子どもがいませんでした。エリサベトもご主人も、もう老人です。この世の常識で考えるなら、この家庭に、赤ちゃんが与えられるなど、あり得ないことです。しかし、天使ガブリエルは、実は、マリアに現れる前に、エリサベトの夫に現れ、エリサベトに赤ちゃんが生まれることを告げました。そして、天使が告げたとおり、エリサベトは身ごもりました。

年老いてから赤ちゃんが与えられる物語は、旧約聖書に幾つか記されています。有名なのは、アブラハムとサラからイサクが生まれたお話しです。その時も主の使いが登場し、サラが懐妊すると告げます。すると、サラは信じることができずに、笑いました。その時の様子を聖書はこのように記しています。

アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。

これらの超高齢出産の物語は、新しい命が胎に宿り、赤ちゃんが与えられることは、神の御業であることを教えています。若い夫婦にとっても、赤ちゃんという命は神からのプレゼントです。老夫婦の場合、常識で考えるとあり得ないことですから、赤ちゃんを授かったのは、神の特別な介入による奇跡としか、言いようがありません。そして、若い夫婦であっても老夫婦であっても、赤ちゃんが与えられるとき、「神さま、ありがとうございます」と命を授けてくださった神に心からの感謝を献げます。

マリアは、アブラハムとサラの物語をよく知っていました。そして、それと同じような出来事が親戚のエリサベトの夫婦に実際に起こっています。天使ガブリエルは、マリアに告げます。

あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

六ヶ月と言えば、お腹が膨らんでいることが分かる頃です。天使が語る言葉は、検証可能

です。嘘ではありません。エリサベトおばさんに、奇跡として、赤ちゃんが実際に与えられています。天使ガブリエルはエリサベトに起こった奇跡を指し示して、

「神にできないことは何一つない。」

と断言しました。「あなたは身ごもって男の子を産む」という神のお告げもまた、必ず、そのとおりになる、という励ましです。マリアは、天使の励ましを受け、おとめである自分にはできるはずはない、という自らの思いを心から閉め出し、語りました。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

ここで、処女降誕の神秘に思いを馳せましょう。マリアは、将来の夫になるヨセフのために、処女であることを保たねばならない婚約の時を過ごしていました。その時に、ヨセフのためではなく、ヨセフとの結婚という自分の幸せのためでもなく、神のために自分の体を用いていただける道が突然、開かれました。命を与え、命を救う神のお働きが、自分を通して、この地になされようとしていることを、マリアは知りました。神に仕える僕として、自分を用いていただきたいと思いました。御言葉に励まされたマリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と自らのすべてを神に委ねました。マリアはこう答えて、救い主の母になる道を自ら選びとりました。信仰とは、マリアのように、自分を明け渡すことを選びとることです。この選びは、自分を委ねることができるほど確かな御言葉が、今自分に語られているという驚きに促されてなされます。

すべての命は、神からの授かりものです。命の神秘に思いを向けましょう。また、すべての人が、自分の体を、また自分の人生を、自分のためだけに用いることはできません。自分の人生は、他者のためにそして神に、ささげるべきものです。誰もが、マリアの体験を通して、神の僕として生きる人生に招かれています。御子イエス・キリストを受け入れる人はすべて、自分のため生きるありきたりの人生ではなく、神のため、隣人のために生きる驚きの人生へと歩み出します。

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