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聖書の言葉

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章6節

宮武輝彦によるメッセージ

今週は、わたしが学生の頃、お世話になった松戸小金原教会のことをお伝えしましょう。

松戸小金原教会は、関東の千葉県松戸市にあります。昭和55年、1980年に、ときわ平教会と、小金原教会が一つになって、生まれた教会です。当時の牧師は、澤谷実先生で、大変活動的で、キリストの愛を伝えるのに熱心な先生でした。

わたしは幼児洗礼を受けて、17歳のときに、信仰告白といって、自分で「イエス・キリストはわたしの救い主です」と公に告白することに導かれました。高校2年生の時でした。ほとんど全員が大学に進学する学校で学んでいました。また、過当と言える受験競争の中で、劣等感にさいなまれていました。しかしながら、礼拝で唱和されていた十戒の言葉を聞く度ごとに、罪を悲しむ思いもよく抱きました。

毎週日曜日に、松戸小金原教会の礼拝に1人で通うようになって、自分と神様とのことを集中して考える時間が多くなったように思います。

大学3年生の頃でしたが、新約聖書のマタイによる福音書からの連続した説教がなされた期間でした。イエス・キリストの受けられた十字架の苦しみを伝える説教を聞く度ごとに、なぜか涙がとめどもなく流れたのを思い起こします。それは、聖書の言葉に聞きながらも、ただ罪を悲しむことにとどまっていたような在り方からの大きな転換点でした。

新約聖書のマタイによる福音書の27章45節以下には、イエス・キリストが十字架にかけられたときの死の決定的瞬間について、このように証言されています。

「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」 礼拝の中で唱和していました、ハイデルベルク信仰問答という教理問答書によく教えられました。問い16でこのように問いかけられ、答えられています。

「なぜ、仲保者は、真実の、義しい人間でなければならないのでしょうか。」

答え「なぜなら、神の義は、罪を犯した人間本性が、罪に対して支払うことを要求するからです。けれども、自分自身、罪人であるようなものは、他の人のために、支払うことはできないからです。」

この「仲保者」とは、神と人間の仲立ちとなられる人という意味です。仲保者は、人間でなければならない理由がここに教えられています。その理由とは、神の求める正しさにおいて、その正しさに適わず、背くことがらの全てを、神は罪として断罪されるばかりでなく、償いを要求されるということです。しかし、誰ひとりとして、この要求に応えうる人はいないのです。

つづく、問い17ではこのように問いかけられます。「なぜ、仲保者は、同時に、真正(まこと)の神でなければなりませんか。」答え「仲保者は、その神性の力によってこそ、神の怒りの重荷を、人性(人間の性質)において耐え忍び、わたしたちのために、義と生命を獲得し、回復することができるからです。」

この二つの問いに教えられることは、神様と人間との仲立ちとなられる人は、人間でなければならず、同時に、神様でなければならない、ということです。そして、この二つの問いの要求を一つの人格の中に満たす人こそ、イエス・キリストであり、この方こそ、永遠の神の独り子であると、聖書は証言しています。ただの人間でもなく、人間を神様と呼ぶように変わったのでもなく、はじめから永遠の神の独り子である御方が、神様と人間、神様と罪人の仲立ちとなられるために、人間となられて、十字架の死に至る道を歩んでくださったのです。

わたしは、この信仰問答を、礼拝の中で教えられたとき、それまでの、何かしら自分の罪意識にとらわれ続けていた思いから、徐々に、キリストの救いを感謝して、喜ぶように変えられていったように思います。そして、そのような思いに導かれていく中で、いつしか、キリストの救いを人々にお伝えする働きを求めるように変えられたのです。それは、本当に、神様の導きとしか言いようのない、恵みの時でした。

先ほど、読んだ聖書の言葉に、「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」た、と証言されています。このことを、ヘブライ人への手紙はこのように教えています。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」(10章19,20節)

毎週日曜日にささげられている教会の礼拝は、このキリストの十字架と復活を覚えてささげられています。神様と人間、罪人の仲立ちになられた、このイエス・キリストのもとに来るとき、わたしたちは、だれでも、神に近づくことができるのです。聖書は、このように、わたしたちに救いの必要なこと、また、礼拝の心も、神さまに変えられる必要のあることを教えています。どうぞ、教会の礼拝に来て、神様の備えられた救いの恵みを知ってくだされさば幸いです。「主の家に行こう、と人々が言ったときわたしはうれしかった」(詩編122篇1節)との聖書の言葉を、お世話になった澤谷牧師も、大切にしていたのを、十字架の恵みとともに、今、思い起こしています。

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