罪人の私を憐れんでください

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聖書の言葉

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

新約聖書 ルカによる福音書 18章9~14節

大野桂一によるメッセージ

今年の5月、クラス会が大阪で開かれ、関東や中国・四国などからも集い、楽しい時を過ごしました。このクラスは男子ばかりで、現役を引退して10年余り、みんな好々爺になっており、直に学生時代の雰囲気になりました。私の挨拶の時に、誰かが「U君は救われるのか」と茶化して質問を投げかけてきました。U君は学生時代に遊び人として知られていました。私は、「U君こそ救われるのだ。」と答えました。すかさず「善人のなおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とO君が叫びました。

本日は、神の掟に懸命に取組み、真面目に生きている人が神に救われないで、世間では悪人と思われた人が救われたお話です。聖書を読みながらお話を進めます。

18:9~10「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。』」

ここでファリサイ派とは、神様の掟(おきて)に最も忠実に生きて、救いを得ようとした人々に付けられたあだ名で、世間の人々とは異なった分離した人という意味です。

彼等は人間的に見れば、特別に信仰心の篤い、神の掟(おきて)に忠実な人として、また道徳的な人として尊敬されたのです。

一方徴税人とは、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマより税金の取立てを請負って、請負った以上の税金を取立て、自分のポケットに入れて懐を肥やすユダヤ人で、敵国ローマに仕え同胞を売る売国奴であり、けしからぬ悪人・罪人と考えられ爪弾きにされていた人々でした。

18:11~12「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」

ファリサイ派の人は、神の掟(おきて)以上のことを守り実行しており、それが彼の誇りであり、自分の正しさに自信を持ち、他人や徴税人を見下げ、裁いています。自分が罪から救われなければならないと言う自覚に全く欠けています。

18:13「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」

徴税人は、神の前に誇るべきものが何も無いことを自覚して、神殿より遠く離れ、恐らく人々からもはなれ、胸を打ちならが祈っています。胸を打つのは、罪に対する後悔と悲しみをあらわす動作でありました。罪のために、神に近づいて祈ることの出来ない苦しみと絶望の姿です。徴税人は神の前に誇るべきものが何もありません。自分に対する徹底的な絶望の中から、ただ神の憐れみを乞うしかないのです。神に赦(ゆる)してもらうほかには救われる方法がないのです。

他の人はいざしらず、罪人であるこの私を憐れんで下さいと祈ったのです。神と自分との関係だけにおいて、罪そのものである自分、神の前に立つことの出来ない絶望的な自分を、神の前に差し出して「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と祈ったのです。

18:14「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

ここで義とされる「義」の字は、義理人情の義という字です。義とは神と人との関係が正しいことをいっています。神との関係が正しくないことが罪であります。イエス様は、神との関係が正しいのは、ファリサイ派の人でなくて、徴税人であるといわれるのです。

徴税人の祈りは「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい。」主語は「神」であり、「わたし」は目的語になっています。神の前に自力による救いに絶望して、神に自分を憐れんで下さいと、ひたすら神に赦しを乞う祈りしか方法がないのです。

徴税人は、神に自分自身を委(ゆだ)ねることが出来ました。委(ゆだ)ねる以外に救いの道がないからです。徴税人は、その祈りにより、神との正しい関係、神の義を頂いたのです。神殿から家に帰った徴税人の生活は、全く新しい生活へ、本当に神の下にある新しい生活へと変えられたはずであります。

ファリサイ派の人の祈りは「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献(ささ)げています。」

彼の祈りの主語は、いつも「わたし」です。わたし、わたし、わたしです。自己満足に浸って、神殿を出たファリサイ派の人の生活は、何も新しいことは始まらなかったのです。自分の正しさ、義について確信があるので、神に頼る必要はなく、自分に頼り、自分自身を拠り所して生きていく、もとの生活に帰るだけなのです。

私たちは如何でしょうか。私たちも常に他人との比較において自分を評価して、いわれない優越感に浸ったり、劣等感にさいなまれたりしながら生きているのではないでしょうか。他人を裁くことにことによって、自分を正当化して、義として自己の存在を確認しているのではないでしょうか。神との関係はどうなっているのでしょうか。

神の御前にでた時、私たちの罪は、どのようになるのでしょうか。私たちは、自分の罪の解決なくしては、絶対的に正しい義なる神の前に出ることは出来ません。

私たちにとり一番大切なことは、義なる神との関係が正され、神より義と認められ、神と共に生きることです。神との関係が正されますと、人との関係は自ずと正されて来るのです。

私たちの罪を赦し神との関係を正しくするためにこそ、神の御独り子(ひとりご)であるイエスさまが、この世に来て下さったのです。どうかこのイエス様はどんな方であるのか聖書に聞き、信じ、あなたご自身を神の委(ゆだ)ね、神との関係が正され義とされ、神と共に生きることが出来ますようにお祈りします。

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