復讐してはならない

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聖書の言葉

あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

新約聖書 マタイによる福音書 5章38~39節

吉田謙によるメッセージ

今、世界は、復讐の連鎖で混乱しています。やられたら、やりかえす、そういうことを延々と繰り返していくならば、やがてこの世界は滅んでしまうでしょう。しかし、頭では分かっていても、なかなか感情が押さえ切れない、それが現実ではないかと思います。

私たちの正義感は、本当に自己中心的です。「世の中が悪い」「あの国、この国が悪い」「政治家が悪い」「教育が悪い」「あの人、この人が悪い」私たちは正義感に燃えて批判するのです。けれども、そうやって正義感に燃えて、批判している時の私たちの心は、果たして恨みや復讐心から解放されているでしょうか。おそらく、そうではないと思います。自分では、「この憤慨は正統である」「相手が悪いのだ」と考えているのです。確かに、事柄自体は、相手が間違っていて、自分が正しいということがあるのかもしれません。しかし、正義感に燃えて憤慨している時の私たちの心は、大抵は、憎しみで一杯です。「私の方が正しいことを相手に思い知らせたい!相手をぎゃふんと言わせたい!恥をかかせたい!」結局、そこには自己中心の思いしかありません。自分のやりたいように生き、自分を中心にして世界が回っていて欲しい。そうでなければ不満を抱く。そうではないでしょうか。私たちは、この恨みや怒りから本当に自由になるために、イエス様が教えられたように、許す心を身につけなければなりません。

以前、ある伝道者の祖母と母親が、どうやってイエス様を信じるようになったのかという証しの文章を読んだことがあります。その伝道者の祖父、おじいさんにあたる人は、非常に身勝手な人で、ある日、自分の家に奥さん外の女性を連れ込み、ついには子供まで産ませたそうです。奥さんは、心に大きな傷を受け、悩みに悩み抜いた末に、とうとう離婚を決心し、中学生の娘二人を連れて家を出たと言います。二人いた娘の内、妹の方は、特に父親のことが大好きで、それだけに彼女は、その大好きな父親が急に変貌してしまったことに絶望し、やがて自ら命を絶ってしまいました。それ以来、その奥さんともう一人の娘は、その父親が連れてきた女性のことが憎くて憎くて仕方が無くて、憎しみのあまりに、とうとう体調を崩してしまい、がりがりに痩せ細ってしまったそうです。そんなある日、彼らは救いを求めて、近所の教会の門をたたきました。二人は本当に憎むことに疲れ果てて、辛くて辛くて仕方がなくて、もう藁にもすがるような思いで教会にやって来たのです。けれども、その教会で最初に聞いた言葉は、「右の頬を打たれたなら、左の頬を差し出しなさい」「そのようにして、あなた方は復讐心を捨て、赦し合うように」という言葉であった、と言うのです。この聖書の言葉を聞いた二人は、言いようのない憤りを覚えました。「イエス・キリストは、人間の苦しみを全く分かっていない。綺麗ごとばかりを言っている。こんなひどい目にあって、どうして赦すことができるか?!」もう憤慨して家に帰ったそうです。けれども、家にいても何の解決にもなりません。またしばらくして二人は、教会の門をたたいたそうです。その時に二人は、イエス・キリストが十字架の上で祈られた、あの言葉を聞きました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」この言葉を聞いて、二人の目は開かれました。イエス・キリストは決して口だけのお方ではなくて、実際にその通りに生きたお方であった。そういう愛をもって十字架の上で死んで下さった。そのことに目が開かれたのです。その時から、この二人は、激しい憎しみから少しずつ自由になっていきました。憎むことしか出来なかった生活から、人を愛する思いが与えられ、生きる喜びが回復していったのです。また、この伝道者の先生は、自分の子供の頃の思い出として、こういうことも書いていました。中学生の頃、一年に二度ぐらい、おばあさんが寝ている時に、いきなり、もの凄いうなり声を上げるのだそうです。そして慌てておばあさんを揺り起こすと、「またあの夢を見ていた!」と決まって言うのだそうです。やはり心の傷が完全に癒えたわけではなくて、夢の中では時々は思い出すのです。一年に二度ぐらいは、もの凄いうなり声をあげるほどに、やはり心の中には深い深い傷が残っていたのでした。けれども、翌朝になると、このおばあさんはまるで何事もなかったかのように台所に立ち、鼻歌で讃美歌を歌いながら味噌汁を作っていた、と言うのです。

信仰というのは、そんなにいつもいつも模範通りにいくわけではありません。イエス様を信じ、「昔の恨みは綺麗さっぱり忘れました」と言っても、一年に二度ぐらいは、夢の中で激しく憤り、もの凄い唸り声を上げなければならないほどに、まだ心の傷は完全には癒えていないのです。けれども、イエス様の恵みは、そういう残った傷がありながらも、決してそれを廃除するのではなくて、それでも、なお全てを包み込んで下さるような懐の広い恵みなのです。そのようなイエス様の大きな大きな愛に包まれながら歩み続けていく時に、たとえ模範通りに恨みが全部消えなくても、そこから少しずつ少しずつ清められていくのだと思います。このおばあさんは、もう一年に二度しか夢を見ないほどに造り替えられました。翌朝には普通にお味噌汁を作ることが出来るほどに立ち直ることができたのです。

このように十字架のイエス・キリストを見つめ続ける時に、イエス様ご自身が私たちを少しずつ造りかえて下さいます。似たもの夫婦という言葉がありますけれども、これは必ずしも最初から似ているとは限りません。長い間連れ添っていく中で互いに影響し合い、少しずつ似ていくのだと思います。これは私たちとイエス様との関係にも言えることでしょう。日々聖書の言葉に親しみ、祈る生活を大切にしていく時に、私たちも少しずつイエス様に似る者へと造り変えられていくのです。

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