主の祈り 3

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聖書の言葉

だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。』

新約聖書 マタイによる福音書 6章9~10節

吉田謙によるメッセージ

今日は、この「主の祈り」の第二番目の祈り、「御国(みくに)が来ますように」という祈りについて学びたいと思います。

この「御国(みくに)」という言葉は、直訳しますと「あなたの王国」という言葉です。「あなた」というのは、言うまでもなく「神様」のことです。つまり、ここでは「神様の王国」「神の国」のことが祈られているわけです。

この「神の国」という言葉は、通常、場所のことよりも「神様の支配」を言い表しています。ですから「神の国が近づいた」とか「神の国が来た」というイエス様のお言葉は、「神様が王様として、私たちとこの世界とを支配して下さる時が近づいた」あるいは、「今、そういう時がやって来たのだ」こういう意味になります。

イエス様がこの世に来られる前に、真面目に信仰生活に励んでいた人々がいました。ファリサイ派の人々、あるいは律法学者たちです。彼らは、非常に真面目な宗教家でありまして、聖書の教えを全部実践しようと試みた人たちです。ですから、この人たちは、「自分たちは、他の人たちのような罪に汚れた人間ではない。心の清い、立派な人間なのだ」こう自負していたのです。この律法学者やファリサイ派の人々も、同じように「御国(みくに)を来たらせたまえ」と祈っていた、と言われます。では、彼らは「御国(みくに)を来たらせたまえ」と祈った時に、何を考えていたのでしょうか。「神様がこの世界を支配して下さる時に、心の清い者たち、つまり自分たちは神様の御国(みくに)に入れられるけれども、そうではない者たち、つまり罪に汚れた者たちは裁かれ、地獄に落とされるのだ。」彼らはこのように信じていたのです。

私たちは、彼らと同じ気持ちで、この祈りを祈ることが出来ないと思います。もし、神様の支配が実現する時に、心の清い者たちだけが救われて、心の汚れた者たちには神様の厳しい裁きがくだるとしたならば、どうでしょうか。まず真っ先に、私たちが神様の裁きを受けなければならないのではないか。もう恐ろしくて「神の国が来ますように」とは、到底、祈れないですよね。逆に「もう少し待って下さい」「神の国が来ませんように」と祈らなければならない。ところが、イエス様がこの世に来られて、神の国について教え始められた時に、それは律法学者やファリサイ派の人々の期待とは、まるっきり違っていました。イエス様は、ご自分の周りに、世間でも一番評判のよくない人々を集められました。徴税人や罪人と呼ばれている人たちです。そしてイエス様は、そういう人たちをこよなく愛し、親しく食事をしながら、「神の国は今ここに来たのだ」と宣言なさったのです。神様の支配は、実際には、罪人を退治して地獄に投げ込むような仕方では現れなかったんですね。世間で一番評判の悪い人たちであっても赦される。愛される。このことを神様は、ご自分の独り子(ひとりご)イエス・キリストを通して現されたのであります。そして、そのようにしてイエス様が、赦(ゆる)し、愛し、憐れまれた人々の心に、神様の教えが深く染み込んでいきました。今までは罪に支配されていた人々の心に、神様に従う思いが芽生え始めた。「神様を愛し、人を愛して生きていこう」「神様を王様としよう」こう願う者へと変えられていったのであります。このように神様の支配は、本当に思いがけない仕方で、この世界にやって来たのでした。

では、どうしてイエス様は、そういう世間で最も嫌われているような徴税人や罪人を愛することが出来たのでしょうか。そういう人々を食事に招くことが出来たのでしょうか。その秘密は十字架にあります。イエス様には、既に全ての人の罪を背負う覚悟があった。人の罪を裁くのではなくて、罪は全部ご自身が背負う、そういう覚悟で、神の国を来たらせようとなさったわけであります。

「御国(みくに)が来ますように」こう祈る時に、私たちは、このイエス様が現して下さった神の国を思いながら、祈ることが出来ます。もし、罪人が地獄に落とされるような仕方で神様の支配がもたらされるとするならば、もう私たちは怖くて「御国(みくに)が来ますように」と祈ることが出来ません。けれども、イエス様が十字架という秘密をもちながら、この地上で神の国の福音を宣べ伝えて下さいましたから、私たちは本当に安心して「御国(みくに)が来ますように」と祈ることが出来る。これは本当に感謝なことではないかと思うのです。

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