主は羊飼い

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聖書の言葉

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。(中略)死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。

旧約聖書 詩編 23編1,4節

吉田謙によるメッセージ

「神様、あなたが私のことを愛しておられるのなら、私がこんな辛い目に会うのは、おかしいではないですか?!」これはよく私たちがつぶやく言葉です。しかし、旧約聖書の詩編の作者は、そうは言いませんでした。それどころか「神様が共におられるならば、たとえ死の陰の谷を歩もうとも私は恐れません。大丈夫です!」このように歌ったのです。ここにキリスト教信仰に生きる本物の信仰者の姿が見事に描かれているのではないかと思います。

ある時、ワシントンDCの地下鉄の構内で、一人の青年がバイオリンの路上ライブをしました。彼のその時の格好は長袖のシャツとジーンズ、そして頭には野球帽をかぶっていました。どこにでもいるような青年の姿です。彼は45分間、そこでモーツアルトやシューベルトの曲を演奏しました。そしてその45分間に、彼の前を約千人の人々が通り過ぎて行ったと言います。何人かの人は足を止めて、その演奏に聴き入りました。しかし、ある人はこう言ったそうです。「なんだ。彼の弾いているバイオリンは安物だね。僕の持っているバイオリンの方がよっぽど上等だ!」あるいは「なかなか上手だけど、やっぱり俺の方が上かな!」みんな好き勝手なことを言いながら、彼の前を通り過ぎて行ったそうです。

実は、この青年は世界的にも有名なバイオリニストでした。そして、この時、彼が使っていたバイオリンは日本円で約3億円はする最高級のバイオリンでした。そして彼は、三日前にボストン・シンフォニーホールで演奏会を終えたばかりでした。一番安い席でも、日本円で約一万円はする演奏会です。彼のバイオリンを「安物」と言った人は、バイオリンを見る目があったのでしょうか。「この演奏なら、俺の方が上だ」と言った人は、聴く耳があったのでしょうか。

実は、これはある有名な新聞社が、実験のために仕組んだパフォーマンスでした。どういう実験かと言うと、美しさ、あるいはそのものがもつ本当の価値が、日常的な環境や不条理な状況にあっても、多くの人たちに、それは美しいとか、素晴らしいと認識できるかどうか、という実験でした。例えば、一番安い席でも一万円はする音楽会で、しかも有名なコンサートホールで演奏すると聞けば、たとえよく分からなくても、高そうなバイオリンに見えてきますし、演奏もなんとなく上手そうに聞こえてくるのです。しかし、その同じ演奏者が地下鉄の構内で、普通の青年と同じ格好でバイオリンを弾いていると、ほとんどの人が、そんなにうまい演奏者だとは気づかなかった。あるいは3億円もするバイオリンだとは思わなかったのです。

ところが、ほんの僅かですけれども、本物を見抜く目を持っている人は、「なぜこの青年はこんな3億円もするバイオリンをもっているのか?!」「どうしてこんな上手な青年が、こんなところで演奏しているのか?!」と驚いたそうです。

私たちが神様を認識するのも同じでしょう。目に見える仕方で様々な恵みが与えられている時には、多くの方々が神様の愛に気づき、神様を誉めたたえることができるのだと思います。けれども、何の変哲も無い平凡な日常生活の中で、あるいは不条理と思えるような困難の中で、神様が寄り添い、慰め、励まし、支えていて下さることを実感し、そういう中にあっても、なお神様を誉めたたえることが出来たならば、その人の信仰は本物だと言えるのではないでしょうか。

私が牧師を務めている教会に、九十九歳で亡くなられたあるご婦人がいらっしゃいました。彼女は、たくさんの苦しみや悲しみを経験され、最後は年老いていく中で、色んな痛みを経験された方です。けれども彼女は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という大好きな聖書の言葉を口ずさみながら、最後の最後まで神様を誉めたたえることを忘れませんでした。それは、彼女に本物を見抜く信仰の目があったからだと私は思います。

彼女は教会が大好きでした。聖書を読むことが大好きでした。やがて体力が衰えて教会に来れなくなった時にも、私が月に一、二度施設を訪問し、一緒に聖書を読む時をとっても楽しみにしておられました。私が語る聖書の解き明かしを、一言も聞き漏らすまいと真剣に耳を傾けながら、毎回、涙をポロポロ流しながら喜んで聞いて下さったのです。そうやって彼女は、聖書の言葉に養われていましたから、どんなに辛いことがあっても決してへこたれることがありませんでした。

私たちが悲しみや痛みの中で、傷を負い、呻き苦しんでいる時に、本当に慰め、癒してくれるのは、自ら傷を負う救い主をおいて他にないのだと思います。イエス・キリストは自ら傷を負い、私たちと同じ所まで降りてきて下さいました。私たちが悲しみの中で痛み苦しむ以上に苦しみ、その痛みを負って下さいました。私たちの罪を一手に担って十字架の上で死んで下さったのです。しかも、ただ同じところに立ち、悲しみを共にして下さるだけではなくて、十字架の死に打ち勝ち、その傷を完全に癒すことの出来るお方として、私たちのところに来て下さったのです。

「あなたの痛みや苦しみ、悲しみは知っている。あなたが今くじけそうになっている弱さも私は知っている。でも大丈夫。私があなたの弱さや破れや失敗、罪や背きを全部十字架の上で担った。悲しみや苦しみや痛みの背後にある神の怒りと呪いを全部私が担った。もうあなたには神の怒りや呪いは向けられない。あなたも立ち直れる。だから安心して私についてきなさい!」

彼女は、聖書の言葉に養われる中で、このイエス・キリストと出会うことが出来ました。苦しみの中にあっても、このイエス・キリストが彼女の傍らにいて、慰め、励まし、語りかけて下さったのです。だからこそ彼女は、様々な苦難に遭遇しても、へこたれることなく、乗り越えることが出来たのだと思います。あなたも、聖書に親しみ、この本物を見抜く目を身につけてみませんか?!

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