獄中の青春

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聖書の言葉

しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。

旧約聖書 創世記 39章21~22節

西堀元によるメッセージ

最近活躍しているキリスト者の作家がいます。この人は一度、監獄に入りましたが、その間もよく勉強して今は作家となった。監獄の経験を書いた本も書いている。逆境をバネにしているのです。また有名な人権活動家のマンデラさんも人生の多くの時間を牢獄で過ごしました。もしも自分が牢獄の中に無期限で入れられたらどうなるだろうかと思うとぞっとします。期限なしで牢獄に入れられたらやけをおこしてしまってもおかしくないと思います。

今日でてくるヨセフは兄弟たちに憎まれ売り飛ばされ、エジプト人でファラオの宮廷役人のところで奴隷として働くことになりました。日がすぎ自分の使える主人の妻に言いよられますが、神に従うヨセフはきっぱりと誘惑を拒否します。しかし、ある日事件が勃発し、ヨセフは濡れ衣を着せられて牢屋に入れられることになったのです。「『あなたの奴隷がわたしにこんなことしたのです』と歌える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕られて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた」。お金と権力を持つ女主人が黒と言えば、白でも黒なのです。

さて牢獄でのヨセフはどうだったでしょうか。奴隷として売り飛ばされ、さらに犯罪人と烙印を押されました。人間的にはふてくされてしまっても当然です。しかしヨセフはふてくされていない、腐ってもいないのです。監獄にいれられた人は多くいます。しかし無実の罪で入れられてふてくされて自暴自棄にならなかった人は多くないのではないかと思います。

最近『夜と霧』を読み返しました。アウシュヴィッツでの囚人としての自分の体験をフランクルという精神科医が語っています。彼はアウシュヴィッツを生き延びたのです。アウシュヴィッツというのは人間の悲惨の極限状態です。強制労働と劣悪な生活環境、食事とも呼べないような食事。ある囚人は解放の日付の夢を見ました。しかし夢のお告げの日付が近づくのに解放される見込みは、どんどん薄れていく。すると突然この人は高熱を出し、ついに夢のお告げの翌日に亡くなった。

反対にそのような中で生き延びた人はどのようであったか証言しています。生き延びたのは我先にと食事を貪る人ではなく小さなパンを分け合った人。そしてなにより希望を捨てなかった人です。自分は将来ここを出て、目に入れても痛くないほどの子どもにもう一度会うのだという希望、もう一人は研究者として仕事が完結していいない、彼にしかできない仕事が待っている人。生きる希望を持ち続けた人が生き残ったのです。「まさに、自分が『なぜ』存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる『どのように』にも耐えられる」とフランクルは語ります。

さて今日のヨセフはどうでしょうか、彼はこの後、どのくらい牢屋にいたのでしょう。創世記37章2節と41章46節を見てみると、牢屋に入れられたのは多分17才ころ、そして牢屋を出てファラオの前に立ったのが30才です。何とヨセフは10年以上牢屋の中にいたのです。「牢屋の中の青春」。兄弟に売り飛ばされた頃のヨセフは自分が夢を読み解く能力を与えられていることを自慢して兄たちを小馬鹿にしていました。しかしこの牢獄の10年が彼を練り上げたのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません」。そしてこの牢屋の時を含めて人生を振り返って自分を売った兄弟たちに言うのです。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」そうです、牢獄の10年の後に彼はエジプトの総理大臣になって食糧危機のエジプトの民を救い、そしてさらに自分家族も養うことになりました。

ヨセフの牢獄の10年を支えたのは神様でした。21節「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった」主がヨセフと共にいて彼を導いて下さった。ヨセフは神の御手に自分の存在を預けたのです。そこに彼が苦難を耐え抜いた力があるのです。牢屋にたたき込まれたのは濡れ衣でした、しかしそこにも変わらない主の愛の御手があったのです。ヨセフはこの神の御手にある確かな将来を信じていたのです。

最後に新約聖書ペトロの手紙一2章20節から少しお読みします。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」

私たちには苦しみがあるとしても、それは意味がない苦しみではありません。誰よりもイエス様が理不尽な苦しみと私たちのために十字架の死を味わって下さいました。それは「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」キリストのこの命に生かされる人は、どのような苦しみの中でも希望をもって生きることができます。なぜなら私たちを導くのは神様の愛の御手だからです。

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