新しい名前

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聖書の言葉

その人は言った「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」

旧約聖書 創世記 32章29節

西堀元によるメッセージ

私たちは人生の中で、いろいろな人に出会います。いくつもの出会いが折り重なって人生がつくられます。しかし私たちはこの人には二度と会えないという失敗や迷惑をかけてしまったことがないでしょうか。今日の箇所に出て来るヤコブは兄の一番大切にしていた長子の権利と、さらに神様の祝福も兄から父を騙すことで奪ってしまいました。そのために家族は一緒に暮らすことができなくなり旅に出ます。そうしてヤコブは伯父ラバンの所に身を寄せ20年間暮らしました。

さて、時が満ち神によって故郷に戻るように導かれます。ヤコブが兄と二十年ぶりに再会するのです。「その夜、ヤコブは起きて、2人の妻と2人の側女、それに11人の子どもを連れてヤボクの渡しを渡った」。そしてヤコブは独り川向こうに残りました。兄は四百人を引き連れてやって来ます。殺しに来たのかも知れません。ヤコブは眠ることができなかった、落ち着かなかった。彼は眠れません。不安と恐れにヤコブは一人苛まれます。

「そのとき何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」。その夜、突然一人きりのヤコブを襲う者がありました。ヤコブはとっくみあいで転げ回って「土」を体に付けながら必死に戦った。26節「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに桃の関節が外れた」ヤコブは執拗にこの「何者かに」戦いを挑んでいきます。

さてヤコブはこの戦いが進む中で、自分が戦っている人が神様であることを気づいたのです。わらにもすがる思いで神様の祝福を求めます。27節「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言います。それでもヤコブは手放しません。ヤコブは「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」ヤコブはひたすら「祝福」を求めます。

そのときヤコブは神から名前を問われます。古代では現代と名前の意味がずいぶん違っています。古代では、あるものの名前は、本質をあらわすと考えられていました。だからこの問いは、「あなたはどういう存在か」という問いです。この時、ヤコブに話しかける相手はもちろん彼の「名前」を知っていて、あえて問うのです。どうしてでしょうか。神様はヤコブの名を答えさせることによって、彼に罪を告白させたのです。ヤコブは答えました。「わたしはヤコブ」つまり「アーカブするもの、他人の足を引っ張る者」ですと。ヤコブという名前は「足を引っ張る者」という意味なのです。

最近、自己責任という言葉を使います。そして人間が人間に対して狼のようになっていないでしょうか。うかうかしていては食い物にされる。私たちはアーカブ(出し抜くもの)でなくては生き残れません。皆さんはどのような教育を受けてこられたでしょうか。今もそうかもしれませんが、私は受験の厳しかった頃でした。偏差値教育はアーカブする(出し抜く)者を量産するのだと思います。私は大学を出た頃に大きな病気をしました。そして仕事を転々とし、人と比較して劣等感を抱えて生きてきました。同世代の人たちがまぶしく見えました。しかし今思うと、あの挫折がなかったなら、人生のどこかでもっとひどくなっていたと思います。何よりも挫折を通して神様が私に出会って下さいました。

29節「その人は言った。お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と争って勝ったからだ」。ヤコブは新しい名前「イスラエル」と名付けられます。神様から新しい名前、つまり新しい存在として神様から名付けられました。普通イスラエルとは「神が戦われる」という意味ですが、ここでは「神と戦う」という意味が与えられています。ヤコブという名前は古い過去を思い出します。「イスラエル」という名前は、この日以来、神様との出会いを繰り返し思い起こさせる名前となります。

32節「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは足を痛めて引きずっていた。」兄エサウへの恐れと心配、あせりから始まった夜は、神様との格闘が終わり、夜があけ、新しい朝が来ました。ヤコブは勝利しました。しかし足を引きずっています。負けないことで体に不自由かかえることになりました。朝日に照らされる引きずる足、ヤコブは足を引きずりながら、たどたどしい足取りで兄エサウと再会しました。

聖書を読み進めると、この兄弟たちに和解が与えられたこと分かります。ヤコブは神によって低くされ、そして兄と再会したのです。引きずる足を見て兄の心は和らいだはずです。ヤコブは兄との再会を恐れていましたが、本当に出会うべきお方は神様でした。まず和解しなければならなかったのは神様でした。

私たちもヤコブの新しい名前「イスラエル」のように新しい名前を持つのです。それはキリスト者という名前です。それはヤコブが体を打たれたように、キリストが私たちに代わって、私たちの罪のために十字架で血を流し打たれることで獲得して下さった新しい名前です。もうヤコブ、他の人の出し抜く足を引っ張る生き方は必要がないのです。キリスト者という名前は愚かで弱々しく見えます。しかし「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。私たちはこのイエス様が私たちのために死んで下さったことを信じることでキリスト者とされます。この新しい生き方に私たちはみな招かれているのです。

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