わたしの言葉は決して滅びない

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聖書の言葉

「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

新約聖書 ルカによる福音書 21章31~33節

赤石めぐみによるメッセージ

イエスさまの時代においても、今の私たちの時代でも、人々の関心は、「終わりの日はいつくるのか?そのことが起こるときには、どんなしるしがあるのか?」ということです。いつ来るかわかっていれば、そのときのために備えておけるからでしょう。けれども、そういう、私たちの「いつ?」という問いに対して、イエスさまのお答えはきまって、「惑わされないように気をつけなさい」とか、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」というふうに、はぐらかすようなお答えばかりで、私たちに「いつ?」と問うのをやめさせようとしておられるようです。ルカによる福音書では、イエスさまは特にきっぱりと、「世の終わりはすぐには来ない」とおっしゃいました。

「世の終わりはすぐには来ない」とおっしゃったあとに、イエスさまはさらに言われました。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」と。

イエスさまが「世の終わりはすぐには来ない」とおっしゃったあとの歴史を振り返ってみると、約2000年のあいだに、人間はこれらのことを皆経験したような気がします。あれから2000年も経ったので、「いよいよ世の終わりがもうすぐ来るのかもしれない」と思わされてしまいます。

たしかに、2000年前よりは、世の終わりは近づいているのかもしれません。しかし、イエスさまがおっしゃった「わたしの言葉は決して滅びない」という言葉が本当なら、「世の終わりはすぐには来ない」という言葉はいつまでも有効性を持っているはずです。イエスさまは、「世界の終わりの日はいつ来るのか?」と問うことを私たちにやめさせようとされています。それよりも、終わりの日が来る前に、私たち自身の身に起こることに目を向けさせようとしておられます。「これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証をする機会となる。」「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたの解放の時が近いからだ。」「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と、イエスさまはおっしゃいました。

たぶん、世の終わりが来るよりも先に、私たちは、私たち自身の人生の終わりを迎えます。イエスさまは、私たちが、世界の終わりがいつ来るのかを心配して、それに備えることよりも、自分自身の終わりの日のために備えることを促しておられるように思います。自分の人生の終わりの日に備えることは、自分自身にしかできないことだからです。

自分の人生の終わりがいつどのようにやってくるか。これもまた神さまにしかわからないことです。しかし、その日が近づいたとき、必ず死の圧迫を受けます。そしてそのような圧迫を受けるときこそ「あなたがたにとって証をする機会」だと言われています。多くの場合、私たちは病気という形で、死の圧迫を受けます。病を得ると、人は必ず心の思いも悪くなってしまう傾向にあります。そのようななかで、イエス・キリストを信じる者として、心の清さを保つための闘いを迫られます。その闘いに勝てているかどうかは、看病してくれている家族、医師、看護師さんたち、同室の入院患者さんたち、見舞いに来てくれる友人たちなど、周りの人たちへの態度に表れます。だから、「それはあなたがたにとって証をする機会となる」のです。恥ずかしいことですが、私は10年ほど前に約40日入院していたとき、ことごとくこの闘いに負けてしまいました。病のつらさと心の弱さのために、ちっともクリスチャンらしくできず、このまま死んだら全然よい証を立てたことにならない、という生活しかできなかったのです。私にはあのときの苦くてつらい思い出があるので、人生の終わりの時にはそうならないように心を整えられたい、と思っています。

迫害、という圧迫についてはどう備えたらいいでしょう?たとえば、お葬式の出し方やお墓の問題について、宗教の違う家族から反対を受けるということがあると思います。そういったことを含めて信仰ゆえに迫害を受けたときもまた、証をする機会です。証によって受け入れてもらえたなら、大変ありがたいことですが、それでもなお自分に対して理不尽と思われるような仕打ちを受けた時に、悪い思いを抱かず、イエスさまが十字架の上でなさったように、「父よ、彼らをおゆるしください」と願うことができるかどうか、その点でイエス・キリストに従い通せるか、私たちはいつも自分自身を注意深く見つめ、目を覚ましてこのことを祈り求める必要があります。

死の圧迫を受け始めたら、イエスさまのこの言葉を思い出したいと思います。「身を起こして頭を上げなさい。あなたの解放の時が近いからだ。」イエス・キリストを信じる者には永遠の命が約束されていますので、ひとたび経なければならない私たち自身の終わりの日、(つまり)死は、「解放の時」なのです。病などの苦しみからの解放の時、迫害からの解放の時です。解放の時に、神さまに「おまえはよくやった」と言っていただけるような人生最後の時を迎えることができたら、本当に幸いなことです。

「起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」そう命じられる、決して滅びないイエスさまの言葉に従って、祈りを重ね、自分自身の終わりの日に備えたいものです。

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