善悪を知る木の実の毒

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聖書の言葉

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

旧約聖書 創世記 2章16~17節

赤石めぐみによるメッセージ

キリスト教会は、「罪からの救い」ということをよく教えていますが、皆さまにはどんな罪がありますか。どんな罪から救われたい、と思われますか。

殺す・盗む・偽る、という罪は犯していない、そういう意味で自分は罪人ではない、と思っていらっしゃる方もあるかもしれません。十戒に照らして、罪の問題を考える方もいらっしゃるかもしれません。教会生活の長い方は、「原罪」という言葉を知っていらっしゃって、最初の人アダムが罪を犯したから、人間は皆、罪人なのだ、だから救いが必要なのだ、と教えられたことと思います。最初の人アダムは、いったいどんな罪を犯したというのでしょう?「原罪」とは、どんな罪のことを言うのでしょう?人間すべてにその罪がある、と言われて、ピンと来る方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。

私たち日本キリスト改革派教会が使っている教理問答では、「罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは、神の律法に背くことです」と教えています。そして、最初の人アダムが、神さまから「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じられたことに「違反」したので、「普通の生まれかたでアダムから出る全人類は、彼の最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落した」、「堕落は人類を、罪と悲惨の状態に落とした」と教えています。

要するに、人間は、神さまの戒めを完全に守ることはできないのだ、だから罪人なのだ、だから救いが必要なのだ、ということです。そういう罪理解のもとで、もうどんなにがんばっても100点にはならないけれど、イエスさまを信じて生きていけば大丈夫と思って信仰生活を送ってきました。しかし、30を過ぎたころから、年を重ねるにつれ、罪の上塗りをしていっているように感じられ、これ以上長く生きることに何の喜びがあるのだろう?自分がよっぽど罪深い人間であることを、この先ますます覚えさせられていくだけだったら、悲しいばかりではないか・・・、もっと根本的な何かから救われたい、もっと根源的な何かを改めないと、という気持ちになりました。

そんなときに、最初の人アダムが犯した罪のことを学び直す機会が与えられました。神さまがアダムに命じられたことはこうでした。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」この命令の意味を知っていた蛇は、巧みに誘惑しました。新改訳聖書の言葉で読みます。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」と。

神さまのご命令は、「善悪を知ろうとしてはならない。それを知るようになると、必ず死んでしまう」という意味だったのです。蛇は、「その実を食べると、これは善いことだ、これは悪いことだ、と判断ができるようになって、神のようになれるぞ」と誘惑しました。このとき、木の実を食べたこと自体が問題だったのではなく、「善悪を知って、神のようになれる」という誘惑に陥ったことの方が、重大な問題だった、と気づかされたのです。

イエスさまも、「人を裁くな」、人の善し悪しを「判断するな」と命じておられます。アダムが食べてしまった善悪を知る木の実の毒は脈々と流れ込んで、私たちの魂は皆、善悪を知る木の実の毒に侵されています。そしてサタンがいつも、「神のようになれるぞ、おまえが一番正しいから、おまえがそう言えばみんなおまえに一目置くようになって、おまえは一番偉くなれるぞ」とささやいて、私たちを誘惑してきます。身に覚えがおありでしょう。毎日、家族に対して、職場の上司や同僚、後輩たちに対して、教会の中ででさえ、私たちは常に、自分の判断基準に従って、人の言動の善し悪しを判断し、自分の意見が一番正しいと言わんばかりに主張しあっています。お互いにそれをしてしまうから人間関係は悪化、それが人々の生きづらさを作ってしまっています。神さまもイエスさまも、「善悪を知ろうとするな」「人を裁くな」と私たちにお命じになるのは、利己心が強いばかりで正しくない私たちがそれをすべきではないからです。

私は、昔から、「細かいことによく気がつくね」と言われるほど、気づいたことをいろいろ指摘する人間でした。それは、褒め言葉かと思っていたのですが、間違いでした。それは善悪を知る木の実の毒のせいだ、サタンの誘惑に負けているせいだと知らされてからは、いろいろ気がついてしまわないように、もっと鈍感になりたい、と思うようになりました。

いろいろ気がついて善し悪しを判断しているときには、自分が神になってしまっているのです。もし、自分に人を救う力があるのなら、そのとき指摘した言葉は、その人のためになって、その人をもっとよく生かすことができるでしょう。しかし、多くの場合、その指摘の言葉は、ある価値観からの批判でしかなく、人を傷つけて終わるだけです。自分にも相手にも、いやな気持ちが残るだけです。善悪を知る木の実の毒から清められ、「神のようになれるぞ」というサタンの誘惑を退けなければ、私たちは、罪に罪を重ねて死に向かっていってしまうばかりです。相手を傷つけ、自分も死ぬのです。どうしたらこの罪から救われることができるのでしょう?

祈ることが必要です。祈りによってサタンの誘惑を退けられたイエス・キリストに倣うことです。そのイエスさまが教えてくださった祈りをいつも唱えることです。「我らの日用の糧(キリスト)を今日も与えたまえ。我らの罪を赦したまえ。我らを試みに陥らせず、悪より救い出したまえ」。この祈りを毎日唱えて、善悪を知る木の実の毒から解放されて、心の思いを清められて生きていきたいと思っています。

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