主の道を備えよ

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聖書の言葉

そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

新約聖書 ルカによる福音書 3章3~6節

吉田謙によるメッセージ

今、私たちは、クリスマスを前にしたアドベントの時を過ごしています。このアドベントという言葉は、もともとはラテン語の「アドベニレ」という言葉から生まれた言葉です。「何かが起こってくる」「思いがけないことが自分の前に立ち現れようとしている」もともとはそういう意味の言葉です。そのことから、クリスマス前の備えの時期を「救いの出来事が起ころうとしている」「救い主がやって来られる」という意味で、「アドベント」と呼ぶようになったのです。今日は、今、お読みしました「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ!」という聖書のお言葉を通して、アドベントの心備えをしたいと思います。

洗礼者ヨハネという人は、救い主イエス・キリストが歩むべき道を整えるために、イエス・キリストが公の活動を始められる前に、神様から遣わされた預言者でした。このことは、別の角度から言うならば、まだこの時、救い主イエス・キリストを迎えるための道筋が整えられていなかった、ということでしょう。神の独り子であるイエス・キリストがお生まれになり、いよいよその活動が始まろうとしているのに、人々の心はまだ依然として荒れ野のように荒んでいて、まだ救い主を受け止める準備が出来ていなかったのです。「荒れ野」というのは、この人々の心の様子を象徴的に言い表している言葉です。そして、これは、この当時のユダヤの人々がそうであった、というだけではなくて、二千年後の現代を生きる私たちの心にも、同じようなことが起こっているのだと思います。私たちの心にも不安があり、不平不満があり、妬みや傲りや人を恨む憎しみの心があります。まるで荒れ野のようであります。今の社会は、そういう私たちが集まって作っている社会ですから、社会全体が荒れ野のように荒廃し、その勢いが止まらないというのも、ある意味、無理もないことなのかもしれません。けれども、神様はそのような私たちを救うために、独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。ですから私たちは、この荒れ野のような心を癒していただくために、まずこのイエス様を心にお迎えする準備をしなければなりません。洗礼者ヨハネは、将に人々に悔い改めを迫り、イエス様を心にお迎えするその準備をしたのでした。

悔い改めというのは、ただ単に後悔する、反省するということではありません。方向転換をすることです。神様に立ち帰るということであります。自分は今まで神様から離れた生活をしていた、神様に逆らった生活をしていた、それは明らかに間違いであった、そのことに気づき、方向転換をする、神様に立ち帰るのです。方向転換をするためには、当然、今まで自分の歩んできた方向が間違っていたことに気づかなければなりません。

当時のユダヤ人社会においては、貴族階級や特権階級以外の民衆は、苦しい生活を強いられていました。多くの人々が真剣に救いを求めていたのです。けれども、自分の生活の惨めさ、苦しい現実をただ呪って嘆いているだけの人々は、「自分にもその責任の一端がある」などとは思ってもみませんでした。彼らは悔い改めるどころか、むしろ世の中が悪い、社会が悪い、時代が悪い、環境が悪い、親が悪い、夫が悪い、妻が悪い、と言って自分を正当化し、すべての責任を自分以外のところに責任転嫁しようとしたのです。これが私たち罪人の現実でありましょう。悔い改め、これは決して人間の内側から自然に湧き出てくるものではありません。これは神様の側からの呼びかけ、神様の側からの働きかけがあって始めて可能になる出来事なのです。ですから、旧約聖書の時代から繰り返し、繰り返し、預言者が遣わされました。今日の箇所でも、神様がこの洗礼者ヨハネを遣わして、人々を悔い改めへと促したのです。

私たちは、自分の心に荒れ野があることは自覚していると思います。平安を失い、愛を失い、妬みや憎しみに捕えられ、人との良い関係を築いていくことができず、むしろそれを破壊してしまうことが多い、そのことを真剣に嘆いていると思います。けれども、その根源に、神様に背き逆らっている罪があるということには、なかなか気づかないのです。神様から離れていることが、それらの苦しみの根本的な原因であり、本当の解決は、神様のもとに立ち帰り、罪の赦しをいただくことであることがなかなか見えてこないのです。しかし、私たちが抱えている問題、荒れ野を歩む苦しみの源は、紛れもなく私たちが神様のもとから離れてしまったという罪にあります。そもそも、この世界は、本来、神様が造られた素晴らしい世界です。私たちも神様に造られた者であり、神様に望まれて、この世界を生き始めました。ところが私たち人間は、造られた神様に背を向けて、自分勝手な生き方をし始めたのです。その時に、この素晴らしい世界が住みづらい世界になっていきました。私たちの人生も空しく、悲惨なものになっていったのです。これはよくよく考えてみると、当然のことと言えるでしょう。そもそも私たち人間は、神様と共に生きるようにと造られたわけで、その神様から離れて生き始める時に、この人生が空しくなるのは当然です。この世界が住みづらくなるのは当然であります。私たちはそのことを、神様から、はっきりと指摘されなければなりません。

「あなたの荒れ野の心に、主の道を整えよ。主に向き直れ!」今日私たちは、この荒れ野で叫ぶ声に、素直に耳を傾けたいと思います。世の中の腐敗ぶりを嘆き、「あの人が悪い」「この人が悪い」と他人に責任転嫁するのではなくて、まず私たち自身が本気で悔い改めなければならない。これがイエス様を相応しくお迎えする備えの心、アドベントの心なのです。

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