恵みと平和

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聖書の言葉

パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 1章1節

吉田謙によるメッセージ

今、お読みしたのは、初代教会の最大の伝道者であったパウロという人から、テサロニケの教会に宛てて書かれた手紙の冒頭部分です。パウロは、この手紙の最初に、「恵みと平和が、あなたがたにあるように」と書き記しました。これは、「恵みと平和が今もあなたがたにあるし、これからもずっとあるように」という意味の祈りの言葉です。では、パウロはどういう思いを込めて、この言葉を書いたのでしょうか。彼らが苦しみや迫害に遭わず、平穏無事に楽しく生きることができるようにという思いを込めて、この言葉を書いたのでしょうか。もしそうであるならば、このパウロの言葉はデタラメである、ということになります。何故ならば、このテサロニケの教会の人々は、今、将に信仰による大きな苦しみの中を生きていたからです。この手紙の少し後の1章6節のところには、こう言われています。「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」ている。

ここには「あなたがたはひどい苦しみを受けている」と言われています。このことからも、苦しみがないということが必ずしも恵みなのではない、ということが分かると思います。それでは恵みとはいったい何なのでしょうか。パウロがこの言葉を使う時、多くの場合に意味されていることは、「全く相応しくない者に与えられる神様の恩恵」ということです。もしそれを受けるに相応しい清さや正しさや慈悲深さを持つ人に恩恵が与えられたとしても、それは「恵み」とは言いません。全く相応しくない者に与えられるからこそ、「恵み」なのです。「恵みが教会にある」とは、この全く相応しくない者に与えられる神様の恩恵が、教会に、また私たちに豊かに注がれ、そのことがしっかりと自覚されている、ということでしょう。もし私たちが自分はこれだけ頑張って神様に仕え、よいことに励んでいるから、こういう恵みがあってもよいはずだ、と思っているとしたならば、私たちは神様の恵みが全く分かっていない、ということになります。そして、そこには恵みはないのです。恵みが私たちの上にあるとは、私たちがそのような思いを捨てて、自分には全く相応しくない恵みが神様から与えられていることを覚えて、感謝するようになることです。

そして、この恵みが本当に恵みとして受け止められるところには、平和が与えられます。神様に対しても、隣人に対しても、自分の当然の権利を主張しようとする時に、平和を失い、争いや対立が生じてしまうのだと思います。私たちは、神様に対しても、しばしばそのようにして争い、怒り、自己主張をすることがあるのではないでしょうか。そして、そういう時には、私たちの心に平安はありません。しかし、恵みが全く相応しくない自分に注がれている恵みであることに気付くならば、私たちは神様との間に平和を得ることができるのです。これは隣人に対しても同じことが言えるでしょう。自己主張と自己主張がぶつかり合って、私たちは対立し、争い合うのです。しかし、お互いが、神様から恵みを受けていること、それに相応しい自分だからではなくて、全く値しないのに大きな恵みの中に置かれていることを覚えるならば、そこには和解と平和への糸口が与えられていくのだと思います。

私の教会の入門講座で学んでいるあるご婦人は、私がイエス様の十字架の話をすると、毎回、ポロポロと涙を流されます。「こんな愚かな私のために、イエス様は十字架の上で死んで下さった。本当に感謝です」と、毎回、大泣きされるのです。大げさだなぁと思われるかもしれません。けれども、十字架の恵みを真剣に受けとめる時に、これは誰であっても本当は涙する他はない、そういう大きな出来事なのだと思います。それだけ、本当に凄いことが起こったんですね。信じられないようなことが起こったのです。神の独り子が、他でもない私を救うために、他でもないあなたを救うために十字架の上で死んで下さったのです。何故、神様はそんな犠牲を払ってまで私たちを救おうとなさったのでしょうか。それは、神様が私たちのことをそれほどまでに愛し抜いて下さったからです。つまり、神様にとって私たちの命は、御子を犠牲にするほどまでに価高く、尊く、掛け替えのないものであった、ということでしょう。本当に畏れ多いことです。私たち自身には、それを受けるに相応しい清さや正しさや慈悲深さなど微塵もありません。それなのに、神様は全く相応しくない者に、その驚くべき恵みを一方的に与えて下さったのです。

先程のご婦人は、このイエス・キリストの十字架の恵みを、まっすぐに受け止めておられます。ですから、何度、イエス様の十字架の話を聞いても、その度に大泣きされるのです。以前、彼女は、自分が正しいと信じ込み、正義感に燃えて周りの人たちをバッサバッサと裁いていた、と言います。けれども、イエス・キリストの十字架の愛が彼女の心を捕らえた時以来、彼女は全く変えられました。以前、彼女は私にこういう話をして下さいました。「以前は、何か問題が起こると、すぐに顔を突っ込んで、『あなたが悪い。こうしなさい』と正義感に燃えて、簡単に人を裁いていました。けれども、結局、そのことによって余計に問題をこじらせていたように思います。今はそのことが少しずつ見えるようになってきました。今でも時々調子に乗って「またやってしまった」と思うことがありますけれども、今は素直に、「神様、ごめんなさい」と祈ることが出来ます。また、そのおかげで迷惑をかけた人にも、素直に「ごめんなさい」と謝ることが出来るようになりました。今は心の中に深い平安があります。」

これは本当に凄いことですね。彼女はイエス・キリストの十字架の恵みを、本当にしっかりと心に刻んでおられます。だからこそ彼女は、少しずつ平和に生きることが出来るようになったのです。

私たちも、全く相応しくない私たちを招いてくださる神様の驚くべき恵みに感謝しつつ、平和の内に新しい週の歩みを始めていきましょう。

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