永遠の命とは

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聖書の言葉

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、

あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

新約聖書 ヨハネによる福音書 17章3節

山中恵一によるメッセージ

聖書によく出てくる言葉のひとつに「永遠の命」という言葉があります。これは、ただ、しょっちゅう出てくるというだけの言葉ではありません。数ある聖書の教えの中でも、とても重要な事柄なので、繰り返し何度も出てくる「永遠の命」とは、そのような言葉です。

わたしは、小さい頃から、教会に通っていたので、ことあるごとに「永遠の命」というフレーズを耳にして来ました。何度も、聞いてきた言葉なのですが、私にとって「永遠の命」とは、どこか曖昧な、あやふやな言葉であったような気がします。まず、永遠というものが、どういうものなのか分からない。永遠を取っ払って「命」だけを考えてみても、そもそも、「命」というもの自体が何だかよく分からない。あるとき、気になって、国語辞典で、『永遠』と『命』について、その意味を調べたことがありました。

それぞれに、いくつかの説明があるのですが、「永遠」というのは、平たく言えば「終りなく続く」ということです。そして「命」。これについては、「生物が生きていくためのもとの力となるもの」とありました。そして、その後、調べたふたつの言葉をもう一度ひっつけて、「『永遠の命』とは、『いつまでも終ることのない、生きるための力』ということかぁ。」辞書を調べて、こんな風に納得をしたのをおぼえています。

「終ることなく、いつまでも自分を生かし続ける力」。自分の生きがいとして自分の力になるモノというのは、身の回りに色々あるかもしれません。「私にとっては、お金が命です」こういう人にとっては、お金がその人を生かす力になっています。「家庭が私の命です」これは、家庭がその人を生かす力であるということでしょう。健康・人間関係・趣味などなど、色々と、生きる力になるものがあるんだと思うんですね。けれども、それが永遠かどうか?と考えると、終りの無いものなんてこの世界にはありません。お金は無くなってしまえば自分を生かすことはできません。人であれ、健康であれ、それは、いつまでも、終ることなく、というわけにはいかないのです。

聖書は、言います。「『永遠の命』とは、神様を知り、イエス様を知ることなのだ」と。「神様を知ること」と「イエス様を知ること」は、ふたつでセットになっています。イエス様は、聖書の別の箇所で、このように教えられています。「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」(14:7)、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(12:45)。イエス様という御方をじっと見つめるなら、神様という御方のことが分かる、というのですね。

イエス様を心の中で見つめるとき、そこに浮かび上がってくるのは、何と言っても、イエス様の十字架です。イエス様は十字架で命を捨ててくださるほどに、私たちを愛してくださる御方です。そして、イエス様の十字架を見つめるならば、今度は、そこに神様の愛が見えてきます。その愛とは、私達のためであれば、たったひとりの子供であるイエス様でさえ与えてくださる、とてつもない大きな愛です。イエス様を知るとは、自分がこのとてつもない愛で愛されていることを知るということなんですね。

この愛を知るときに、私達は、自分がどれほどに、尊い存在であるのかを知ることが出来ます。周りの人からどれだけ生きる力を削がれたとしても、お金の無さや、健康を損なうことがどれほどに、生きることを諦めさせようとしても、「あなたのためにイエス様が十字架についてくださった」この事実を、無くすことは出来ません。いつまでも終ることがない、「永久保証」の愛。この愛を知って「自分は、神様の独り子が命がけで愛してくださるほどに、特別で、大切な存在なんだ」このように思えるのだとしたら、イエス様を知ることは、その人を生きることへと駆り立てる、本当に素晴らしい力、その人の「命」となります。

これが、聖書が皆さんに提供する『命』です。そして、神様はこの『命』をいつまでも終ることなく、皆さんに味わって欲しいと望んでおられます。肉体が死を迎えたとしても、文字通り「終ることなくいつまでも」です。死んだ人間をも愛によって生かし続ける驚くような力。こんなとんでもない力を与えることが出来るのは、神様をおいてこの世界のどこにもありません。「神様のとてつもない愛によって、終ることなく、いつまでも永遠に生きる力を注がれ続ける。」ラジオをお聴きの皆さんが、イエス様をより深く知ることによって、この『永遠の命』に生かされる喜びを味わい知って頂きたい、心からそう願います。

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