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聖書の言葉

「わたしはある。わたしはあるという者だ。」

旧約聖書 出エジプト記 3章14節

山中恵一によるメッセージ

聖書のある節にこんな一言があります。「人は絶え間なく言う『お前の神はどこにいるのか?』。」(詩編42編4節)また、こんな言葉もあります。「神を知らぬものは心に言う。『神などない』と。」(詩編14編1節)聖書は、神様を見出すことができない人達の声を率直に記します。「お前の信じている神などどこにいるのというのか?」「神なんて、そんなものいるわけがない!」こうした言葉は、私達自身も抱くことのある言葉ではないでしょうか?大きな苦しみの中で、出口の見えない虚しさの中で、理不尽に思える災害や困難の中で。「神などいやしない。そんなものがいるなら、一体、どこにいるっていうんだ?」

今日の聖書の言葉は、そのように、神様の存在を遠く思う人に向かって差し出されています。この時代、多くの人々が無茶苦茶な労働を強いられていました。ひとつの仕事を終えれば、さらに、大きな仕事が当てがわれて、それが終われば、また次の仕事を負わされて、無理難題をふっかけられて、こき使われていました。「神なんてどこにいるんだ」そうつぶやきたくなるような苛烈な労働の日々です。彼らは古代エジプトの奴隷達でした。神様は彼らに言われました。「私は、エジプトからあなた達を救い出す」そして、そのように言われてから、神様は、先ほどの言葉を告げられたのです。神様の自己紹介と言ってもいいかもしれません。神様は言われました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」

なんだか、不思議な自己紹介ではないでしょうか?人間同士の自己紹介で、「わたしは確かに実在します」こんなところから自分を紹介する人はあまりいませんよね。でも、神様は、言われるんですね。「わたしは確かにいる者である」と。普通は、自己紹介のときには、相手が知らないことを教えます。神様は自己紹介として、「わたしはある」ということを教えてくださいました。つまり、人間にとって、神様がおられるということは、当たり前のことではないということです。「神様という御方が本当にいらっしゃるのだ」ということは、ご本人から教えて頂かないと知ることが出来ないということです。

私は、この聖書の箇所を読むたびに、「神様は、なんて丁寧にご自分を伝えてくださる御方なんだろう」そんな思いを抱きます。神様は、私たち人間が、どれほど、神様のことを知ることができないのか?そのことを本当によくわかっていらっしゃるんですね。生きることに、ただただ忙しく時間を奪われて、仕事に追われて、誰かの要求に応えることに苦しんで、疲れ果てて、日付が変わっていく。そして年月だけが過ぎ去っていく。そんな虚しく、苦しい日々を送る人が、「神などない。神などどこにいるというのか」こうした言葉を抱えていることを神様は、ご承知なのです。「こんな世界で、神様がいるなんて信じられるわけがない。」それは、神様もご存じの、厳しい世界を生きる人の自然な反応なのです。そして、まさにそのような人に向かって、神様は「わたしはいるよ。」と、誰もが気になる「神はいるのか?いないのか?」という大前提について、しっかりと御自分の言葉で教えてくださるのです。

そして、神様は、「ご自分がいる」ということとセットにして、「わたしはお前達を救う」という志も教えてくださいました。神様が本当にいたとしても、自分を滅茶苦茶にしようとする神様なら知らないほうがましです。また、神様が確かにいたとしても、自分にまったく興味を持っていない神様なら、赤の他人となんら変わりません。でも、聖書を通して、私達に自己紹介してくださる神様は、「苦しむ人を救う」という嬉しい志を持っておられる御方です。

ラジオをお聴きの方の中には、毎日クタクタになって、しんどい日々を過ごしている方がおられるかもしれません。労働に限らず、家庭のこと、健康のこと、様々な理由で、辛い日々を送っている方がいらっしゃるかもしれません。そうした出口の見えない、過酷さの中で、あるいは、自分にはどうすることもできない空虚さの中で、「神などいない。かみなどどこにいるのか」そんなことを思うことがあるかもしれません。神様は、聖書をとおして、みなさんに言っておられます。「わたしは確かにいる。お前を救う存在が確かにいる。わたしはある、わたしはあるという者だ」

みなさんの毎日の中に、この神様が、ご自分の存在を確かなものとして示してくださいますよう、心から願います。

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