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聖書の言葉

 イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。…言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

新約聖書 マタイによる福音書 11章28〜30節

牧野信成によるメッセージ

主イエスは神の国の到来を語り、多くの奇跡を行いました。ガリラヤの町々で、多くの人が命を救っていただいて、健康が回復されました。けれども、全体として見ますと、ガリラヤは神に立ち返ったとはとても言い難い状況でした。イエスと弟子たちの故郷として、後々まで教会の憧れを呼び覚ますガリラヤ湖畔の町々は、主イエスからは「ソドムのほうがまだまし」と酷評されます。ソドムとは、創世記に記されている、神の裁きによって天からの火で滅ぼされた町です。

悔い改めることのない町や国を待ち受ける「裁きの日」の深刻さは、私たちの思いで些かも軽減できるものではありません。またそれは、歴史に学ぶ私たちの経験からしても過小評価することはできないと思います。悔い改めることをしない、つまり、人間の罪を深く悔いて、真の神に従うことを拒んだ世界は、その自らの罪によってソドムやゴモラに匹敵する壊滅を幾度も経験してきました。

イエスが叱責なさった町々で、イエスに現わされた神の力を見えなくしていたものは何でしょうか。それは、自分たちは堕落した町々とは違う、ソドムのようなことにはならない、と安心しきってしまったことです。真の悔い改めを伴わない安心の中に、「天にも上る」驕りが生じ、イエスが共におられた力のない小さな者たちへの無関心がありました。国家の政治的な目標を達成するためには民衆の犠牲をも顧みない、経済的な繁栄を身近なところで確保しておくためには一部の地域が見捨てられても構わない、努力をしない者や出来ない者は迷惑だから出ていってもらいたい。こういう世の中の姿勢には、神が求める「悔い改め」は見られません。

この世の中は、イエスが憤られた程に、神の裁きを恐れない、悔い改めのない世界です。それは、貧しい者たちが切り捨てられるだけの、救いの見えない場所です。けれども、そこにイエス・キリストによる神の救いが現れました。イエスが父と呼ぶ天の神の御心は、この世の低さを身をもって経験した、周りからは疎まれるような人々のいるところで明らかにされます。

イエスの叱責は、人がときどき行うように斬って捨てる断罪とは違います。父親が子を諭すように、救いの知識が伝達されます。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

主イエスはここで、すべてを任されている御自分の権限でもって、御許に来る者を拒まずに、休ませてくださると言っておられます。イエスは御自分の弟子たちの小さな信仰を御覧になって、時々、「小さな者たち」と呼びました。また、天国に入るのは幼子のような者たちだとも、言われました。そのようなものが、イエスによって呼びかけられて、休息を約束されます。

「疲れた者」とは、疲れ果てるまで苦労した人ということです。その苦労や重荷は、自分から望んで負ってしまったものではないのだと思います。生まれながらにして背負っている重荷がありますし、次第にそうならざるを得ないで積み重ねた苦労や重荷があるのだと思います。そうした一つひとつが、私たちの世界が罪のゆえに担わされている重い軛です。その重さの故に自ら命を断ってしまう人が実に多い世の中です。

だから、イエスは、「わたしの軛を負いなさい」と言われます。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。イエスは柔和で謙遜な方です。この世界の罪に対しては、先に見たように恐ろしい言葉で叱責されるような方ですが、御自分のもとに逃れて来る者に対しては、御自身を同じ低みに置かれて、苦しみを共にしてくださるお方です。

イエスの軛とは、何でしょうか。それは、イエスに学ぶことです。イエス・キリストを信じて、その教えを聖書から学びながら、イエスの弟子として生きていくことです。学ぶ、ことに関しては、私たちの社会は実に熱心で、子どもたちも早くから受験のために競争へと追いやられます。皆が良い社会的なポストを得ようと、将来についての備えをしようと必死です。けれども、それと同時にもっと大切な学びがあります。それは、生き延びるための学びです。自分一人が生き延びるためではなくて、世界が生き延びるための学びです。イエスについて学ぶことは、裁きの日に備えるための、命の学習です。そこからもたらされる安らぎは、天国での休息までとっておかれるものでもありません。「休ませてあげよう」という言葉は、「元気づける」という意味ももっています。イエスについての命の学習は、競争に追いやられて嫌でも勉強するような類のものではなくて、神に生かされている命を自分の内にじっくりと確かめながら、何が本当に幸せであって、何が神の御旨に適って人間らしい生き方なのかを体験して行く歩みです。イエス・キリストは、そういう新しい人生へと、私たちを招いておられます。「疲れた者、重荷を負っている者」は、積極的にイエスの軛を負うことで、思いも寄らなかった安息を人生の中に与えられます。

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