まことの神のみに仕える

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聖書の言葉

悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

新約聖書 マタイによる福音書 4章8〜11節

牧野信成によるメッセージ

先の大戦で多くの犠牲者を出して敗戦を喫した経験は、日本のキリスト教会にとっても悔い改めの契機となり、戦後の歩みを方向づけました。しかし、「戦後」が意識から遠のく世情に合わせて、教会が神の真理に基づいて呼ばわる預言者的な声も小さくなりがちです。人が好むと好まざるとに関わらず、キリスト教信仰には「闘う」側面があります。宗教を政治が統御しようとするような場合には、弾圧に対する抵抗として信仰は殉教者を出しながら鮮明なかたちをとります。他方、信教の自由が政治的には確保されているような穏やかな状況下では、信仰の闘いは個人の内面で倫理化して行われがちです。しかし、それはそれぞれ別の次元にある闘いではなくて、真理を真理とする点において一貫しています。今、私たちが信仰の故の闘いを、時代の流れに合わせて回避しているのだとすれば、再び「戦前」から「戦中」へと向かう時代の中で、キリストの名に相応しい証を立てることはできない身体になってしまいます。キリストの証を立てることができないということは、もはや教会に救いの根拠はないということです。聖書が伝えるキリストの福音は、神の一方的な恩恵によって罪ある人間が救われ、復活の命に与るといいます。しかし、その福音を唯一の拠り所として、まことの神に従うとの決意と信仰無くして、神の一方的な恵みが届くとは伝えていません。どのような罪人であっても赦して受け入れてくださる憐れみの神は、悔い改める心に新しい人として生きる力を注がれるお方であって、悔い改めない心に「それでいいんだ」と甘く囁く声は神の言葉ではなくサタンの誘惑です。

荒野の試みにおいて信仰の闘いを率先して行かれた主イエスのことを福音書が伝えています。そこには二つの意味があります。第一には、主イエスは私たちを代表して、悪魔の誘惑に遭われ、これを克服された、ということ。第二には、私たちもまた主イエスの模範に従って、この世界の荒野において、悪魔と闘わなければならない、ということです。

サタンとか悪魔とかいいますと時代錯誤と思われるかも知れません。けれどもそれは何かオカルト的なものを指すのではなく、創造者である神と拮抗する力を持つものでもありません。それは「誘惑する者」です。人を罪に誘って神に背かせることを目的として働きます。

サタンは自分に対する服従を条件に、全世界を支配する権限をイエスに与えると言います。この言葉は本当でしょうか。世界のすべての国々とその繁栄ぶりを自分のものにしようと、イスラエルの傍らにあった帝国の王たちは生涯に亘って領土の拡大に努めました。人生の様々な領域で世界の頂点に立ちたいとの野心が頭をもたげる時、人はサタンに心を売り渡します。

もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。

私たちはこの誘いにどう答えたらよいでしょうか。イエスの答えは明瞭で、断固としています。「退け、サタン」。聖書の神を信じるならば、サタンの約束は端的に嘘だと分かります。神はサタンに世界を与えてはいません。人が自由であるのと同様に、サタンにも一定の自由が与えられていますが、世界のすべては神のものです。そして、人となられた神の子である主イエスには、父なる神によってそのすべてが約束されています。サタンに服従する理由は一つもありません。こうして主イエスは荒れ野の試みにおいて近づいてくる悪魔を退け、新しい人間として神の言葉への完全な服従を証されました。

生ける神の子に示される人の道は、人間の内なる欲望に訴えてくる、サタンの様々な誘惑を神の言葉によって退けながら、十字架へと続きます。人が神の子に期待したものは、人を驚かせる奇跡や、神のものともサタンのものとも見分けのつかない力による軍事的圧倒と支配でしたけれども、イエスが切り開いた新しい人の道は力を捨て、謙遜に聖書の言葉に聞き、神に寄り頼みながら、神の義を願いつつ歩む道です。

主イエス・キリストを信じて、まことの神のみを礼拝することには「闘い」が伴います。サタンの誘惑が私たち個人の心の内と外で、また教会を取り巻く社会の中で、絶えず襲って来ます。それとの戦いは信じることの一部ですから、信仰者ならば誰も避けることは本来できません。

私たちの信仰の「闘い」は、御言葉と共に働く聖霊の促しによって、静かに、しかし断固として行われます。そのために私たちに求められるのは、キリストによって私たちを御自分のもとへと召してくださった、まことの神への信頼、私たちの心を神に明け渡して、他の者の支配を受け入れないようにすることです。

教会が戦争に巻き込まれていった時、「退け、サタン」とのキリストの声が教会には響きませんでした。信仰の闘いは、いざというときに覚悟すればよいという性質のものではなくて、日毎の私たちの生活の中にあります。かつての教会の歩みに重ね合わせて、私たち自身の信仰生活に、もしも何か欠けがあると気付いたのなら、一つ一つ、私たちの出来るところから、信仰生活の質を変えていくことから始めたいと思います。

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