あなたに目を留める神様

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聖書の言葉

主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。

旧約聖書 創世記 4章15節後半

金原義信によるメッセージ

今日は「カインとアベル」として知られる聖書の箇所からお話します。カインとアベルという兄弟がいて、彼らがそれぞれ神様にささげものをしました。神様は弟アベルとそのささげものに目を留められたが、カインとそのささげものには目を留められなかったとあります。カインは激しく怒って顔を伏せます。その怒りは激しい感情となって弟アベルに向けられ、とうとうカインは弟アベルを殺してしまいます。そして結局カインは神様の前を去っていったという物語です。

この話の中に「カインとそのささげものには目を留められなかった」とあります。ここでカインが経験した事はどんなことだったのでしょうか。これは、自分が認められなかった、しかも弟アベルだけが目を留めてもらえた、ということです。カインにはそれがなぜなのか納得いかなかったのでしょう。ここから考えて見ますと、私たちの人生にも似たようなことがあるのではないでしょうか。なぜ自分がこのように扱われるのか、認められないのか。あるいはなぜこのような目に遭うのか。自分の人生が思うようにいかない、しかも自分より優れていると思えない人が、自分より認められ、成功しているのを目の前に見る、そんな時、怒りやねたみがわいてくる、という経験です。神がいるというなら、その神は自分を愛していないと思うのではないでしょうか。そう考えると、カインがここで抱いた心は決してカインだけのものではなく、むしろ誰にもありうるものではないでしょうか。

さて、それでは、神様はカインに本当に目を留めておられなかったのでしょうか。愛しておられないのでしょうか。それはこの物語全体から判断することが出来ます。まず神様は、激しく怒って顔を伏せるカインにすぐに語りかけ、彼の心の状態を指摘し、罪が戸口で待ち伏せている、といって彼に警告します。しかしカインはその警告に従うことをしませんでした。神様はカインの罪を追求なさいました。カインは、自分に出会う人は自分を殺すといって大変おびえました。そのとき神様は、そうならないようにしるしを付けて下さったのです。それが、さきほどお読みした「主はカインに出会う者が誰も彼を撃つことがないように、カインにしるしを付けられた」という言葉です。つまり、神様は全体として、普段から、カインに目を留めておられる。罪を犯した彼に対しても驚くべき憐れみを示して下さったのです。

だから、目を留められなかったといいますが、大切なのは、実はカインの方の受け止め方の問題なのです。つまり、神様がカインに普段から目を留めて下さっているのに、カインの方は普段からそれを信じなかった。愛されているのに愛されていないと決め付けて心を閉ざしていた、ひがんでいたということです。だからささげものにも感謝や喜びはありません。そこでも目を留めてくれなかったといって怒って顔を伏せてしまったのです。

カインは自分の罪を本当に反省し、悔い改めることをしていません。アベルに対する謝罪の言葉もありません。心配しているのは自分の事だけです。ここにも、普段から愛されていないと思っている心が表れています。しかしそのようなカインにも、神様はあわれみのしるしを付けて下さったのです。

確かに、私たちの人生には、どうしてこのようなことになるのか、どうしてこのような目に遭うのか、説明のつかないことがあります。だから神様がカインとそのささげものには目を留められなかったと書いてありますが、それがなぜかということはそんなにきれいに説明できなくても良いだろうと思います。むしろ今日の聖書の箇所は、愛されていないと思っている時でも、神様はあなたを愛しておられる、だから、顔を上げて神様の愛を受け止めるようにと語りかけるのです。

カインに付けたしるしが具体的に何かは分かりません。ただ、私たちにはイエス・キリストという神様の愛のしるしが与えられています。イエス様の十字架、それは神様に愛されていない、見捨てられるという経験を、イエス様があなたの分まで背負っておられる姿です。それほどあなたのことを神様が目を留め、愛しておられることのしるしなのです。説明のつかない人生の苦しみの中でも、神様があなたを愛してあなたの人生を担っている、こう聖書は語っています。イエス・キリストの所に、どんなときにも変わらない神の愛があります。イエス様にあらわされた神様の所に、この物語はあなたを強く招いているのです。

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