一粒の麦であるキリスト

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聖書の言葉

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 12章24節

宮﨑契一によるメッセージ

この朝も一か所の聖書の言葉をお読みしました。イエス・キリストの有名な言葉です。信仰を持っておられない方でも、この言葉を知っているという方がおられます。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」一粒の麦が地に落ちます。すると、その落ちた麦そのものは、もう生きた麦ではありません。腐敗してしまいます。でも、その麦が落ちることは無駄ではないのです。その麦によって、いくつもの実を結ぶということになります。

ただ、ここでイエス・キリストは、単に一粒の麦の話をされているのではありません。ご自分のことを言っておられます。イエス・キリストというお方は、まさに一粒の麦のように、地に落ちて死なれました。一粒の麦にたとえて言われますから、何か非常に、目立たないと言えば、目立たないようなものであったのかもしれません。イエス・キリストの死は、十字架の死です。あまり人目を惹くものではなかったでしょうし、惨めで目立たなないような死と言えるのかもしれません。

ただ、このイエスの死は、単に、およそ2千年前に一人の男が十字架の刑罰にかけられて死んだ、ということではありません。その死によって、多くの実を結ぶ、と言われますように、キリストの死によって多くの人たちが、実を結ぶような生き方をすることができる、ということがここでは言われています。その死によって、多くの実を結ぶと言われていることは、私たち一人一人にとってイエスの十字架死が救いであるということです。

ここでイエスが言われていることは、この世での自分の命を憎んで、豊かな実を結ばせるキリストの永遠の命を受け取ることです。それほどに素晴らしいこのイエスの命を、自分の命として受け取ることなのです。そして、私たち一人一人も、このイエスの命に生かされて、自分の犠牲を厭わないで、多くの人の実を結ばせて、多くの人を生かすために生きてみてはどうか、このことをキリストは語っておられると思うのです。

現代の私たちにとって、本当に人のために生きること、人のために犠牲となること、このことが見失われているのかもしれません。少し人のために親切にすることとか、優しくすることなら、誰にでもできると思います。けれども、本当に周りの人たちの実を結ばせるために、自分が犠牲となる生き方。本当に多くの人たちが生きるために、自分が仕えること。自己中心の根深い思いが私たちには、そのことは無理なことなのではないでしょうか。

作家の三浦綾子さんの小説の中に、『塩狩峠』というとても有名な作品があります。この本の主人公の永野信夫という人は、実在の人物がモデルになっています。彼は、最初からイエス・キリストを信じ受け入れていたのではありませんでした。むしろ、それを毛嫌いしていました。ただ、いろいろな人たちとの出会いを通して、彼は聖書を読み始めるようになります。最初は、何が書いてあるのかあまりよく分からなかった、そういうふうに書いてありました。人の名前ばかりでつまらない、最初はそのようにも思いました。ただ、聖書という本は商売っけがないと思う一方で、彼は、この聖書の中に、それまでの自分の考えとは全く違った考え方が多くあることを認めないわけにはいかなくなった、とあります。そして、彼は聖書のメッセージを聞く中で、「あなたの敵を愛せよ」という聖書の教えのように、敵を愛して死ぬことのできたイエスのことを深く思うようになります。だまされてもいいから、自らを犠牲としたイエスの言葉に従って生きていきたいと、痛切に感じるようになった、というのです。

やがて彼は、自分の深い罪のために、イエスが十字架につけられたこと。このイエスが死から復活して永遠の命を約束してくださったことを信じて、洗礼を受けます。そして、彼は本の中でこういう信仰の告白をしています。「わたくしたちのために犠牲となられたイエス・キリストを思う時、わたしくしもまた、この身を神に捧げて、真実の意味で神の僕になりたいと思っております」。キリストがわたしたちのために尊い犠牲となってくださった。それを思う時に、わたしもまた真実に神の僕として生きていきたい、彼はそのように言うのです。

キリストを信じた彼は、酒癖が悪くて他人の給料を盗むなど問題のあった職場の同僚の隣人になろうとします。その同僚が立ち直るために、自分を顧みずに寄り添って、共に生きようとします。そして、この小説の最後には、自分の乗っていた汽車の客車の部分が、突然分離して逆走してしまうという出来事に遭遇します。その時全ての乗客が混乱する中、彼はただ一人、客車を止めることに努めました。最期は自らを線路に投げ打って、その下敷きになって客車は無事に止まった、ということになりました。ただ、この主人公の犠牲の死によって、心が変えられた人、聖書を読み始めた人が出て来た、ということが、その小説の最後には書かれていました。

今日の聖書の個所が語っていることは、私たち自身が頑張って犠牲になるということではありません。むしろ、私たちのために真実に犠牲となってくださったイエス・キリストのことです。一粒の麦が地に落ちて死んだように十字架で死なれ、そこから甦られた方のことです。そのキリストの永遠の命を受け取って生きる時に、私たちもキリストのように周りの人たちのため、また神のために自分を献げて生きる者にされるというのです。ただ自分のために生きるのではない新しい生き方です。ラジオを聞いておられるあなたも、是非キリストを求めて、教会の礼拝へとおいでください。

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