キリスト教と葬儀

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市川康則によるメッセージ

田村:おはようございます。田村真理子です。ラジオをお聞きのあなたは、今朝、お目覚めいかがでしょうか。今日はもう4月、新年度ですね。新しい学校生活、あるいは社会生活が始まった方もいらっしゃることでしょう。神様の祝福をお祈りいたします。今月前半は久しぶりというか、4カ月ぶりに市川康則牧師の「信仰直言コーナー」をお届けします。市川先生、おはようございます。お久しぶりです。宜しくお願いします。

市川:おはようございます。4カ月ぶりでしょうか。宜しくお願いします。

田村:先生は先月で神戸改革派神学校の校長先生をおやめになったんですってね。

市川:はい。クビに、いやいや、任期満了に伴い辞職しました。それに加えて、22年間勤めさせていただいた教授職も辞職することになりました。

田村:そうなんですか。では、今は何をしてらっしゃるんですか。

市川:のんびり、盆栽いじりなど(田村:まさか!)、いやいや、失礼しました。今月下旬に千葉に参りまして、改革派教会の千城台教会で牧師をさせていただくことになってます。

田村:もう一度、牧師として、日曜礼拝の説教をはじめ、様々な教会のご奉仕に当たられるのですね。

市川:そうです。

田村:そうですか。先生の新しいお働きのために、神様のお導きと祝福をお祈りさせていただきます。

市川:ありがとうございます。では、よろしくお願いします。さようなら。

田村:あーっ、何を言ってらっしゃるんですか。これからお話でしょ?しっかりしてくださいよ。

市川:失礼しました。ぼけてますね、朝から。

田村:今朝はどんなお話しでしょうか。

市川:はい。「キリスト教と葬儀」とでも言いましょうか、お葬式のお話です。

田村:お葬式ですか。ちょっと変わったテーマと言うか、この「キリストへの時間」ではあまり聞いたことがないお話ですね。

市川:そうですね。実はこれも10年以上も前に取り上げたことなんです。

田村:そうなんですか。先週が神様の恵み深さのお話、それも命に生かせてあげようというお話。今週はお葬式ですか。命と死というのは面白い取り合わせですね。

市川:私たちの地上の人生そのものですね。

田村:聖書の中で命とか死とかを直接扱っている部分からお話なさった方は割合いらっしゃったと思いますが、具体的に「葬式」という特定のテーマでは、あまり聞いたことはありませんでしたね。何か動機とかきっかけがあったのでしょうか。

市川:もう30ほど前のことですが・・・。

田村:30年も前。まだ生まれてないわ。

市川:えっ?そうですね、お孫さんはまだ生まれてないでしょう。

田村:あらっ。

市川:あるキリスト教の葬儀屋さんが私の家を訪ねて来られて、しばらく歓談したことがありました。その葬儀屋さんは、それまでに勤めていた別の葬儀会社を辞めて独立して、キリスト教専門の葬儀会社を始められたのですが、まだあまり日が経っていなかった頃で、できるだけ多くの教会を回ってPRをしておられました。教会の葬儀は是非うちで、ということですね。

田村:是非うちでというのは、面白いと言うと失礼ですが、あまり大きな声では言いにくように思いますね。

市川:世間一般では言いにくいですよね、人に向かって「うちで葬儀を」なんて言うのは。その方が、言ってらっしゃったんですが、その当時のお話しですよ、今はどうか分かりませんが。名刺に自分の職業を書きにくいというんですね。

田村:そうかも知れませんね。

市川:名刺というのは、自己紹介のために人に差し上げるものですから、それに葬儀屋とあって、どうぞごひいきになんて言えば、早く死ねって言ってるようなもんですからネ。これは語弊がありますが、葬儀関係の皆さん、聞いてらっしゃったらご免なさいね。私が言ってるんではなくて、実際にそう言われたんです。

田村:(笑)名刺に書けないって、辛いですわね。

市川:それだけじゃないんです。その方の友人で同じように葬儀会社に勤めている人は自分の親にも職業を隠していると仰ってました。親が隣近所に肩身が狭いんですって。

田村:でも、どうしてなんでしょうね。誰でもお世話になるんでしょう。立派なお仕事ですよね。

市川:そのとおりです。その方の仰ってたことには、葬儀屋というのは、人が死んで仕事になる、人の不幸で成り立つ因果な商売ということで、あまり人様におおっぴらにできない、人におおっぴらに言えば、縁起でもないということになるそうです。

田村:でも、何だか変だわ。

市川:それで、私、その葬儀屋さんに申し上げたんです。人が死んで金になる―ちょっと言葉は悪いので申し訳ありませんが、―そういうことなら宗教家だってそうですよ。冠婚葬祭はほとんどが牧師さんとか、お坊さんとか、神主さんにやってもらうでしょう。葬儀の費用は馬鹿になりませんね。そして、それがしばしばその葬儀を執り行う宗教家や団体の大きな収入源の一つになっているんですね。でも、宗教家は名刺に牧師とか、僧侶とか―専門的な言い方があるんでしょうけれど―神主―宮司ですか―とか書くでしょう。そして、決して肩身は狭くないですよね。

田村:そうですね。

市川:それから、例えばお医者さんが死体を解剖したり、死体のいろいろな部分を取って研究に用いることもありますよね。それだって、人の死の上に成り立つ働きであると言えますよね。もちろん、宗教家も医者も死を願ってそうしているのではなく、結果的にそうなっているんだと言われれば、そうかも知れませんが、葬儀やさんだって、人の死を願っている訳ではないはずです。死という避け難い情況の中で悲しむ人たちのために精一杯遺体の葬りの準備をしている訳です。

田村:そうですね。何も肩身が狭い思いをすることないですよね。

市川:それともう一つ、葬儀屋さんを見てて感心するというか、ある意味で見習いたいことがあるんです。

田村:え?何ですか。

市川:葬儀屋さんの言動、立ち居振舞いを見てますと―葬儀という場でですよ、あくまで―無駄なことは言わない・しない、しかし、大事なことはちゃんと説明する・行う、ということです。そして、葬儀会場で決して目立たず、主役にはなりません。主役は喪主とか葬儀執行者(牧師さんとかお坊さんとか)です。また、会場でいろいろの役目を果たす関係者―受付の人とか、出口に並び立つ遺族とか、出棺のときに担ぐ人とか―それらの人々が自分の役割をちゃんと果たせるように、絶えず横にいて、必要なことはすべて伝え、また助ける、しかも、目立たずにそうする。これはなかなかできません。私は牧師という自分の立場や働きがこのようでありたいものだといつも思います―なかなかできませんけど。

田村:そうですね。縁の下の力持ちというか、舞台の黒子のような役目ですね。

市川:人前で目立ちたい、すごいと言われたい、美味しいところだけを取りたい、そういう人は多くいます―私もそうですが。

田村:ところで、お葬式のお話というのは、葬儀屋さんのことだったんですか。

市川:いや、お葬式そのものについてお話するつもりだったんですが、ちょっと横道に逸れてしまいました。でも、その葬儀屋さんとの歓談は、その後ずーっと私の頭の中、いや心の中に残り続けました。

田村:キリスト教の葬儀屋さんはやはりキリスト教の信仰によって葬儀諸式を行われると思いますが、葬儀の実際の順序、プログラムにその信仰が反映してますよね。

市川:はい。キリスト教においては葬儀の根本的な目的は神礼拝です。人に命を与え、人から命を取るのは、ただ神だけです。人間はどんなに自分を誇っても、如何に富や権力を得ようとも、自分の生・死はどうにもなりません。第一、自分の意志で生まれ来た人は一人もいません。気が付いたら、そこにいたのです。また自分の意志で死ぬこともできません。

田村:自殺はどうなんですか。

市川:確かに自分の意志のように見えますが、自殺というのは、本当はしたくないのに、それしか選択肢がないという中で起こることです。例えば倒産、生活苦、いじめ、あるいは、自分が犯した罪に伴う耐え難い恥ずかしさ、こういった精神的苦痛などに耐えられない場合に、自殺が起こります。これは実は、生きることへの願望に反して死を選ぶものです。もしこれらの苦痛や苦悩から解放されることができれば、死を選ぶ必要はありません。自殺は最終的な方法で、それしかないときの選択です。

田村:今度は自殺論になりましたね。

市川:また横道に逸れました。あなたが自殺はどうですかなんて聞くからですよ。

田村:すみません(笑)。

市川:とにかく人の命と死は神の手にある、神だけが命の主、生と死を支配する方だということを改めて自覚し、その神を恐れ畏む、信じる、愛する、特にキリストの死と復活によって信じる者に永遠の命を与えてくださる神に感謝し、神を賛美する、このような意味で神を礼拝する―これが葬儀の根本的な目的です。

田村:個人の生涯やその業績などを葬儀の説教で語ることは構いませんか。

市川:それはよろしいと思います。しかし、故人礼讃になってはなりません。故人にそのような祝福を与え、故人を用い、故人通して私たちを助けられた神をこそ、賛美しなければなりません。ですから、神を礼拝することを妨げるような、神以外のもの―死んだ人、遺族、その他―を恐れ畏むなことは一切しないことが大事です。

田村:はい。

市川:次に葬儀の直接の目的は、故人の遺体を丁重に葬るための準備をすることと、遺族や関係者を慰めることです。遺体にはもはや、その人の魂、人格の中心はやありませんから、生きているかのような関わりはできません。しかし、遺体は決してモノではありません。その人が生きていた器、クリスチャンなら、やがて復活して、今離れている魂と再結合するもの、故人が復活して再びその体で生きる―そういうものですから、復活の希望をもって墓の中に休ませなければなりません。

田村:よく「永眠」という言葉を使いますがそれってどうなんですか。

市川:クリスチャンは永眠しません。魂は天国で神と共にあり、体は復活のときまで墓で休む(正に眠る)のです。

田村:そして遺族への慰めですね。

市川:はい。真の慰め、永続する慰めはただ神の言葉から、キリストの死と復活を最も大事なこととして教える聖書の言葉から与えられます。人間の同情ではありません。もちろん、私たちはご遺族に真実に同情し、慰めと励ましの言葉をかけるのですが、しかし、その出所は神の言葉です。

田村:はい、よく分かりました。ラジオをお聞きの皆様、ご参考になさってください、なんて言うのは変ですけど、でも、キリスト教的に葬儀をしようと思えば、そういうことなんですよね。

市川:そうです。キリスト教の葬儀は基本的にからっとしています。もちろん、愛する人との死別は悲しく辛いものです。それを否定すべきではありません。その悲しさや辛さを表わす方法や機会、故人への愛着をあらわす方法などがふさわしく設けられる必要があると思います。しかし、葬儀参列者の視線は、復活して天におられるキリストに向けられます―そして、そこに故人もいます。それで、悲しみの中にも明るさ、希望、癒しがあるわけです。

田村:はい、どうもありがとうございました。来週も、市川康則牧師の「信仰直言」をお送りします。来週も続けて「キリストへの時間」をお聞きください。

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