十字架のキリストを見上げて

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聖書の言葉

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

新約聖書 マタイによる福音書 27章46節

金原義信によるメッセージ

今日から、イエス様が十字架におかかりになったことを記念する受難週です。そして来週は復活祭(イースター)を迎えます。それで今朝は、十字架のイエス様と私たちの関わりをお話ししたいと思っています。

さきほどお読みした言葉は、イエス様が十字架の上で叫ばれた言葉です。「神様、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びです。この言葉は、しばしば私たち人間の口から出てくる言葉、しばしば耳にする言葉ではないでしょうか。大きな悲しみや苦しみに見舞われる時、困難な中で打開の糸口が見えない時、いろいろやってみたけれども万事休す、こういうときに口にする言葉ではないでしょうか。

イエス様の御生涯は、見捨てられるという経験の連続ではなかったかと思うのです。生まれてすぐ飼い葉おけに寝かされ、ヘロデに命を狙われ両親に連れられてエジプトに逃れました。そして救い主としての活動を始められてからは、人々を愛し、病を癒し、徴税人や罪びとのような、さげすまれた人たちの友となられました。そしてご自分の弟子たちを愛し抜かれました。

それにもかかわらずユダヤの指導者たちからねたまれ憎まれて十字架につけられたのです。イエス様がエルサレムに入った時には歓呼をもって迎えた群衆も、「イエスを十字架につけろ」と叫びました。さらにイエス様に最も近い弟子のひとりであったイスカリオテのユダに裏切られました。他の弟子たちも逃げてしまいました。このように周囲の人たちから、そして弟子たちからも見捨てられました。こうしてイエス様は十字架におかかりになったのです。

けれどもイエス様にとって何よりも苦しかったのは、神様から見捨てられたということです。イエス様はこの十字架の死で、神に見捨てられるということを経験しておられるのです。その苦しみの深さは、私たちの想像を絶するものです。神様は聖なるお方です。一点の汚れもないお方です。そして完全に正しいお方です。その聖さ、正しさを貫かれるお方です。

これに対して私たち人間は完全に聖なる者ではありませんし、完全に正しい者でもありません。お互いに利用したり見捨てたり裏切ったり、そうした日常の営みに表れてくる心の闇を抱えているからです。そのような人間に対して神様がご自分の聖さと正しさを貫かれたらどうなるでしょうか。神様は私たちの罪を一点のあいまいさも残さずさばかれるでしょう。私たちのどんな言い訳も通用しないでしょう。私たちは神様から見捨てられた、というほかなくなってしまいます。けれども神様はそのさばきを私たちに向けるのではなく、全部イエス様に向けられたのです。イエス様に背負わされたのです。だから私たちはもはや神様から見捨てられることはないのです。なぜならイエス様が、私のために神に見捨てられるという想像を絶する苦しみを背負ってくださったからです。

このイエス様の叫びは詩編22編と深いかかわりがあります。その2節「わたしの神よ、わたしの神よなぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず呻きも言葉も聞いてくださらないのか」とあります。この詩編全体を読むと、イエス様の十字架と深い関係があることが分かります。イエス様は私たちのために、本当に神に見捨てられるという何よりも深い苦しみを味わい尽くしてくださいました。神の怒りとさばき、神に見捨てられるということが集中して向けられる場所に、ひとりで立ってくださったのです。だから私たちは神に見捨てられることはもうありません。

私はこの放送を聞いてくださっているおひとりおひとりの悩み悲しみ・苦しみを、もちろん具体的には知りません。また聞いたとしても、「わかる」などとは到底言うことは出来ません。けれどもイエス様は違います。このお方の知らない苦しみはなく、悲しみもありません。だから、どんなに苦しいときでも十字架のイエス様は一緒にいてくださいます。詩編22編25節にこうあります。「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく助けを求める叫びを聞いてくださいます。」

どんなに苦しい時でもイエス様が私たちの叫びを聞いてくださる。だから希望を持ち続けることが出来るのです。

祈ります。天の神様、私たちが十字架のイエス様を信じることが出来ますように。そして神様が決して私たちを見捨てることなく、支え、導いてくださることを信じて、安心することが出来るようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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