聖書の言葉
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
旧約聖書 コヘレトの言葉 3章1節
吉田謙によるメッセージ
この御言葉は、紆余曲折の人生を歩み通した著者が、最後の最後にようやくつかみ取った真理の御言葉でした。この著者は、人生の終わりが近づいてきた時に、色んな楽しいこと、達成感のあることをやってみたのです。けれども、結局、死で終わる人生ならば何をやっても空しいではないか、と別の箇所で書いています。しかし、そういう彼が造り主なる神様を知った時に、その人生観がまるっきり180度変えられました。
彼は造り主なる神様のことを知った時に初めて、その人生が輝き始めたのだと思います。これまで、色んな楽しいこと、あるいは色んな苦しいこと、辛いことを経験してきたけれども、それはたまたま起こったことではなくて、全てのことを見通しておられる神様が、私たちにとって最も相応しい時に、最も相応しい仕方で、最も相応しいことをして下さっていた、そのことがようやく分かった。私たちの視野は狭いので、目の前のことしか見えず、ある時には「どうしてこんな理不尽なことが起こるのか!」と呟いていたけれども、しかし、今から考えてみると、それは、現在、過去、未来の全てを見通しておられる神様が、熟慮に熟慮を重ねてご計画しておられることであった。その時にはまだ分からなかったけれども、その苦しみを通り過ぎてみると、今の自分があるのは、確かにあの時の苦しみがあったからだと分かる。そして、この著者は、先程お読みした言葉の後に、このように書き記したのです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」コヘレトの言葉3章12節、口語訳聖書でお読みいたしました。この著者は、「神様がなさる御業はなんと神秘に満ちていて、素晴らしいことか。時にかなって美しい!」と神様の御業を誉め称えたのです。
先日、まだ病床洗礼を受けられたばかりの方の葬儀を執り行いました。彼は典型的な仕事人間で、とてもこだわりの強い方でした。ですから、彼がこれまでの生き方を変えて、クリスチャンとして生き始めるというのは、非常に困難なことのように思えた、と家族の方々は口々に語っておられました。けれども、19年前にクリスチャンである奥様が亡くなられた時に、彼はこんなことを娘さんたちに語っておられたそうです。「自分は仕事人間で娘たちのことは、一切妻に任せっきりだったけれども、三人の娘たちは本当に良い子に育った。妻がキリスト教信仰に基づき、子供たちを育ててくれたことは本当に正解だった。」と。娘さんたちは、少し照れながら、このことを打ち明けてくれました。どうやら、クリスチャンの奥様を亡くされたことが、彼の一つの転機になったようです。それまで教会には一切顔を出さなかった彼が、それ以来、年に2回、クリスマスと墓前礼拝の時には、必ず教会に顔を出すようになったのです。特に墓前礼拝の時には、奥様のおこつ骨が納められている教会墓地で礼拝が捧げられますから、「今年はいつだったかな?」と、いつも楽しみにしておられたそうです。そして「教会の人たちはみんないい人たちばかりで、教会に行くと不思議なぬくもりを感じる」とも言っておられたそうです。これは将に、クリスチャンが集まるところには、神様が共にいてくださるという実感を、彼は身をもって受けとめていた、ということでしょう。そうやって、年に2回ですけれども、彼は19年間、教会に通い続ける中で、その頑なな心が少しずつ少しずつ解きほぐされていったのだと思います。そして、いつしか、「いつ洗礼をうけてもかまわない!」と娘さんたちには打ち明けるようになっていたそうです。けれども、やはり、今一つ踏ん切りがつかず、ついつい先延ばしになり、まだ洗礼を受けるまでには至りませんでした。
私は彼の葬儀の準備をする中で、本当に今日の御言葉の通りだなぁと、つくづく思わされました。頑固で、こだわりの強い彼が神様を信じるようになるためには、やはりこういう道筋を通る必要があったのだと思います。愛する奥様を癌で早くに亡くされたこと、またご本人も悪性のリンパ腫で身体じゅうが蝕まれていったこと、これらはとても辛い出来事です。出来れば、そんな経験はしたくないと誰もが思います。けれども、彼はそういう苦難を通り抜ける中で、ついに洗礼を受ける決心をなさったのです。
彼は亡くなる10日前に、みんなに祝福されながら、病院で洗礼を受けられました。あの時、少し意識が朦朧としかけていましたけれども、しかし不思議と、自分の口ではっきりと誓約することができました。まだその時には分かりませんでしたけれども、もしあの時を逃していたならば、もう自分の口で誓約することは出来なかったでしょう。次の週には、もう完全に意識が混濁してしまったのですから。神様は、最も相応しい時に、彼の洗礼の時を備えていてくださったのです。
意識が混濁してからは、家族の方々がみんな集まり、少し目が開いたと言っては喜び、少し手を握りかえしてくれたと言っては喜び、オシッコが出たと言っては喜び、本当に些細なことに喜びを見出しながら、和気藹々とした雰囲気の中で、彼の最後を、みんなでゆったりと看取ることが出来ました。そこは死を直前に控えた病室でしたけれども、しかし確かにあの病室は死が支配する場所ではなかったと私は思います。彼のこの世の命は、確かに死で終わりました。けれども、彼の魂は決して死の支配は受けないで、永遠の命の輝きを放ちながら、家族の飛びっきりの明るさに包まれて、奥様の待つ天国に真っ直ぐに旅立って行かれたのであります。
彼の娘さんは、彼が亡くなられる前日に、こんなことを語っておられました。「もしこのことが昨年や来年起こっていたならば、娘たちの大学受験で、きっとこんなにゆったりとした気持ちで父を看取ることは出来なかったでしょう。神様は、父に思い存分寄り添うことが出来るようにと、今という時を備えていてくださったんですね!」こうしみじみと語っておられました。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。神様がなさることは、時にかなって美しい!」本当にその通りだと思います。