愛から生まれる実り

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城下忠司によるメッセージ

私の父は明治の人で、尋常小学校しか出ていません。そんな父から教えられたことの一つに、今でも心に残り続けている特別な言葉があります。それは「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉です。どんな人に対しても高ぶるな、高慢になるな、寛容に生きなさい、と受け取ってきました。しかし、このことは一番困難なことでした。私はイエス・キリストを信じてから60年になりますが、自分の意志や力によって、この高慢になるな、という生き方を実行することができなかったことを、この年になってやっと分かるようになりました。高慢にならないためにはどうすればよいか、私は、忍耐し赦すことによって、寛容になることができれば、高慢にはならないですむのではないかと思います。今朝は与えられた聖書の御言葉から寛容に生きるとはどういうことなのかを教えられたいと願っています。

パウロというイエスさまの弟子が記した手紙があります。その一つ、コリントの信徒への手紙Ⅰの13章は、全体が真実の愛について記されていて、キリスト信者の信仰生活の最高のガイドであります。読みましたのは13章4節で、「愛は忍耐強い」という言葉から始まります。この言葉は口語訳、新改訳という別の訳によれば、「愛は寛容であり」という訳になっています。愛から生まれる特別な実りが、この13章には、数多く記されています。なかでも、寛容という特質を人が生きるうえで最も重要なものとして紹介しているように思います。愛は決して滅びないと8節にありますように、確かに愛はいつまでも存在し、信仰と希望と愛のなかでいつまでも残り、最も大いなるものであると語ります。ですから、この愛を持って互いに忍耐するという心を持つことの大切さが教えられているのです。

また、パウロの手紙にガラテヤの信徒への手紙がありますが、その5章22、23節には「霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、柔和、節制です」と記されています。七つの霊の結ぶ実のうち、後半の四つの、人としての働きの中で、寛容が一番先におかれています。聖書でいう寛容は、私たちが世の中で経験する、単なる許しというものを超えた、悪い事をした相手に対して、赦すということは勿論ですが、そのことを忘れ、総てについて、その人を愛しぬいて行く、という事柄なのです。

「寛容とは、忍耐深い親切と慈しみとの輝かしい組み合わせであると言える」と語った人がいます。寛容であることは何と喜ばしい生き方でしょうか。しかしまた、私たちが寛容であるということに、心からその願いを抱いても、中々寛容が自分のものにならず、逆の行き方をしてしまいます。

さて、旧約聖書の中にも、神さま御自身がいかに寛容であるかを、繰り返し、繰り返し見出すことができます。神さまは何度、御自分の選びの民イスラエルに向かって忍耐と赦しを与えられたことでしょう。出エジプト34:6には「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強くいつくしみとまことに満ち」と記されています。荒野を旅する中において、偶像礼拝やみだらな行為や恐ろしい罪を犯したイスラエルの人々に対して、憐れみをもって赦されたのです。

神のみ子イエスさまもそうでした。パウロはテサロニケの信徒への手紙Ⅱの3章5節に「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」と記し、また、へブライ人への手紙12章2節後半~3節では「このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥じをもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが気力を失い疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」と記しました。

私たちはキリストがどのように寛容であったかを真剣に考えるなら、そのことは私たちの信仰生活にとってどれほどか大きな力となることでしょうか。しかし、わたしたちは、人を赦すことに熱心でないのはどうしてでしょう。

イエスさまは、人々から大きな恥を受け、また、ののしりにも、侮りにも耐えられました。そして、さげすまれ、退けられ、悪しざまに言われたことでしょうか。さらに、大食い、大酒のみ、罪人、人を惑わす者、神を冒涜する者などと呼ばれました。その上、悪魔の力によって、奇跡を行っていると非難されました。最後はおどされ、こぶしで打たれ、つばをはきかけられ、むちで打たれ、十字架につけられたのです。

さて、私たちは自分を十分に、真剣に吟味する時があるでしょうか。イエスさまの弟子であるパウロやペテロのように、救い主イエスさまの模範に従っているでしょうか。私は主イエスさまのなされたこと、語られたことを学び続けても行う事ができていません。また、イエスさまのことをいつも考えていることができません。

しかし、私たちが望みを与えられる御言葉があります。それは、パウロの記しましたコロサイの信徒への手紙3章12、13節です。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」

もし、私たちが家庭、仕事、友人、教会の中で、いつまでも残る愛をもって「実るほど頭を垂れる稲穂」として、高慢にならず、謙遜に生きることができるならば、いつでも寛容の賜物を活かすことができるならば、私たちが 天国の香りを運ぶ者として、周りの人たちに、恵み深い、清くて幸いな影響力を及ぼすことになるのではないでしょうか。

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