信仰直言「クリスマス~一緒にいてくださる神」

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聖書の言葉

特定の引用箇所はありません

旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:市川先生、お早うございます。きょうも、よろしくお願いします。

市川:おはようございます。宜しくお願いします。

田村:12月に入ってから町はどこでもクリスマス・ムードですね。店に入ってもにぎやかな音楽が流れっぱなしです。

市川:ホントですね。

田村:それにしても、クリスマスは、なぜこんなに陽気になるのでしょうね。私、いつもこの時期、思うことなんですが、クリスマスって、イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いする日でしょう。日本には教会もあまりないし、クリスチャンも大変少ないですよね。でも、クリスマスっていうと、誰も彼も祝うっていうか、騒ぎますよね。

市川:面白い国ですね、日本というのは。クリスマスが終われば。町中がらりと模様替えをし、お店ではお琴かなんかの静かな音色が流れ、お正月を迎える準備をしますよね。それが終われば、ヴァレンタイン・デー、ひな祭り、花祭り、花見で一杯やって、子供の日、それぞれに関係のある歌や音楽を鳴り響かせて、何とかしてお客さんに品を買わせようとする、まあ商魂たくましいですね。それでもう夏ですよ。それから海や山にバカンス、夏休み。秋は食欲の秋、芸術の秋、行楽の秋、さんざんお金を使わせて、冬になってクリスマス。もう、一年ですよ。

田村:まあ何て気の早い(笑)。まだ、そこまで行ってませんよ。

市川:そうですね。なぜ、クリスマスはみんながこんなに楽しくなる、あるいはなろうとするのでしょうかね。さっき、イエス・キリスがお生まれになったことをお祝いするとおっしゃいましたね。

田村:はい。それが関係あるんですね。

市川:そうです。

田村:どう、関係あるんでしょう。

市川: 聖書は、イエス・キリスとは神の子だと教えます。「神の子」というのは事実上、神というのと同じです。犬の子は犬であって、猫じゃないですよね。

田村:そりゃ、そうですよ。もっとも、トンビが鷹を生むってことも言いますけどね。ま、そりゃ、意味が違うか。

市川:それは子供の立派さの比喩的な表現ですね。実際の種類というか、モノとしては、トンビはトンビしか生まないし、鷹は鷹からしか生まれませんよね。

田村:それは、そうですわね。

市川:ですから、神の子は、種類というか、本質というか、その点では神だということです。「神の子だから、神とは違うじゃないか」と我々は思いがちなんですけれどね。

田村:そうですね。そう感じますね。そうしますと、イエス・キリスとは神の子というと、イエス・キリストは神様だということになりますでしょうか。

市川:そのとおりです。

田村:ということは、イエス・キリスとがお生まれになったということは、神が人となられたということですね。

市川:そうなんです。もちろん聖書には、イエス様がマリアという女性からお生まれになったと書いてあります。これは、神が本当に、真実に、100パーセント、人間となられたということを強調している訳です。

田村:神が人となるなんて、普通考えないですよね。クリスチャンでない人が聞いても、そんな簡単には信じられないんじゃないでしょうか。

市川:残念ながら、そうでしょうね。しかし、神が人となるという思想というか、考えというか、そういうものが一切なかったかというと、そうではありません。権化という言葉がありますよね。「権力」の「権」に、「化ける」という字を書きます。権現とも言います。「権」という字に「現われる」、「表現」の「現」という字を書きます。この「権」(ごん)というのは「仮に」という意味です。ですから、権化とか権現というのは、神や仏が人間を救うために仮に人の姿をとって現れたものという意味です。「化身」(けしん)とも言います。「化ける」という字に「身体」の「身」という字を書きます。神仏が人を救うために、人の、あるいは他の何かの姿をとって現われることです。

田村:こういう思想は古くからありますよね。

市川:例えば、古代エジプトの王は神の子、例えば太陽神の子とされたり、古代ローマ帝国の皇帝は救い主と呼ばれたり、神(的)であるなどと見做され、そして崇拝の対象でした。日本でも昔、天皇は「現人神」―人となって現われた神―と信じられましたね。もちろんそれは実際には、絶大な支配権力を掌握した者に対する称賛であり、人間を神格化した結果に他なりません。しかし、それにしても、神が人となったということで、その権力や名誉を正当化する訳です。ですから、神が人となるという思想自体は世界にあります。

田村:じゃ、聖書が教えている、神が人となったということも、それらの場合と同じなんでしょうか。

市川:大きな違いが二つあります。

田村:と、言いますと。

市川:一つには、エジプトの王にしても、ローマ皇帝にしても、かつての天皇にしても、支配するために人となった、つまり他のすべての人間が自分に仕えるために人となったということです。決して自分が国民に仕えるためにではありません。

田村:イエス・キリストはその反対ですね。

市川:そうですね。もちろん、確かにイエス・キリスとは神ですから、聖書によれば、究極的には人を支配し、人はキリストに仕えます。しかし、そうなるまでに、また、そうなるために、イエス・キリストは人に仕えらました。人々の僕(しもべ)になられたのです。世の中の普通の考え方では、王は王、僕は僕です。しかし聖書は、まことの王が人に仕えるために、人の僕となるために人となられたと教えます。

田村:逆説的ですね。じゃ、もう一つの違いはなんですか。

市川:キリスト教は一人の神を信じる宗教、いわゆる「一神教」ですね。そして、ユダヤ教もイスラム教も一神教です。しかし、ユダヤ教、イスラム教には、神が人となるという思想、教えはありません。それでは今度は、古代エジプト、古代ローマ、日本の宗教土壌はどうでしょうか。ここでは一神教ではなく、正反対の多神教です。日本では八百万(やおよろず)の神と言いますよね。人、動物、太陽、月、星、岩、大木、山、海、川、学問の神、商売の神、安産の神、数え切れません。

田村:ユダヤ教、イスラム教のような一神教では神は人にならないのに、多神教では神は人になるというか、人を神にする訳ですね。

市川:そうですね。面白い現象ですね。そういう神々の世界、多神教では、神と人間、神と自然とが、相対的な違いや隔たりはありますが、基本的につながっている、連続していると見られています。だから、人を神にする、そうしておいて神が人となったと教えることができる訳です。しかも、その場合、人に仕えるためではなく、人を支配するためにです。

田村:神が人となることが、なぜ、人に仕えるためではなく、人を支配することにつながるんでしょうか。

市川:神々の世界では、それぞれに言わば役割分担があります。一人の神がすべてを司るのではなく、神々が人間社会と自然世界とを言わば細切れにして、それぞれ担当する訳です。しかし、人間は実際には、細切れにされた社会で生きている訳ではなく、一つの共同体として、一つの政治権力構造の中で生きています。それで、その社会全体を支配する者が必要となります。そしてある特定の者の支配を正当化しなければなりません。しかし、人は人のままでは神々の世界に入れませんから、神に祭り上げられなければなりません。しかし、一旦神にされますと、後は、その子孫は神の子孫となり、神が人となったと言われる基礎ができるという訳です。

田村:それでは、イエス・キリストが人としてお生まれになったことが、どうして人に仕えることになるのでしょうか。

市川:はい、とても大切なポイントですね。キリスト教は一神教なのに、神は創造者であり、人とは根本的な隔たりがあるのに、それでも人となられました。どうしてでしょうか。先ず、何と言っても、聖書が教える神は全能者です。神と人とに間には絶対的な、本質的な相違があり、人のほうから神に近づくこと、ましてや神になることなど、とうていできません。しかし、神にはできます。神はまさに全能の神だからです。

田村:神が全能ということですね。

市川:はい。次に、神が人になったということは、神が本当に人を愛されたということです。神が人となったということは、直接にコミュニケーションをする、直に交わるということです。愛することの特徴の一つは、できるだけ近くにいたい、一緒にいたいと思うことですよね、真理子さん。愛しているからできるだけ遠く離れていたい、なんてことはないですよね(笑い)。

田村:はい(笑)。

市川:神様は人間を本当に愛してくださったからこそ、神様の方から人のすぐ側に来てくださったのです。旧約時代には預言者や王や色々な人間が入れ替わり、立ち代りやって来て、神様はこう言われるなどと言ったんですが、もう神様がご自分で人となって来られて、直接に、直にその御心を親しく、明らかに現わしてしてくださったのです。しかも、神は人に仕えるために人となられました。これこそ愛の最高の現われと言わなければなりません。人となった神という思想は他にもありますが、しかし、人を罪と死から救い出すために、永遠の命に生かせるために、人の身代わりに苦しみと悩みを引き受け、死んでくださる、そういうことのために人となった神は、聖書が教えるイエス・キリストだけです。

田村:クリスマスは、人となられた、人として生まれたイエス・キリストのそのような愛、神にしかできないような愛の行為、これを特別に覚えるとき、そのようなイエス・キリストの誕生をお祝いするときなのですね。

市川:そのとおりです。

田村:はい、市川先生、どうも有り難うござました。来年も宜しくお願いします。

市川:来年?鬼が笑いますよ。貴女が笑ってらっしゃる。やっぱり貴女は・・・(笑)。

田村:まぁっ。牧師が鬼などとは。

市川:失礼しました。では良い年を、まだ早かったですね(笑)。

田村:クリスマスに向かうこの時期、ラジオをお聞きのあなたはの上に神様の豊かな祝をお祈りいたします。

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