信仰直言「神は恵み深い?!」

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聖書の言葉

特定の引用箇所はありません

旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:市川先生、おはようございます。

市川:おはようございます。

田村:半年ぶりのご登場ですね。

市川:はい、半年ぶりのご登場、いやいや、半年ぶりに出させていただきます。厚く御礼申し上げます。

田村:あらあら、目の前で頭を深々と下げていらっしゃいます。うーん、いい心掛け。もっと深く。頭が高~い。

市川:ははぁ。何やらせるんですか、朝から。

田村:それでは真面目に。今朝はどんなお話でしょうか。

市川:はい、大分前に一度取り上げたことですが、また、最近、ある人から聞かれたことです。

田村:何でしょうか。

市川:神様って、本当に恵み深いのですか?って、言われました。

田村:えーっ。面白いというか、正直というか。

市川:クリスチャンでも、時々、何でこんなことが起こるんだろう、こんな目に遭うんだろうと思うことがありますね。私にそのように仰った方は、時には神様は意地悪じゃないかなと思うこともある、と仰いました。

田村:なるほどね。決して神様を疑ったり、ましてや信仰を捨てたりするつもりはないけれど、つい思わず、そのように問うこともありますね。

市川:そうですね。普通、神は愛だとか、神は恵み深いと言いますから、神が意地悪とか、厳しいなんて言うことは不自然ですよね。しかし、ここで問題。

田村:えっ?当たったら何かいただけるのかしら。

市川:当たったら?じゃ、お茶でもご馳走しましょうか。

田村:お茶だけ?

市川:こわー。じゃ、ケーキでも付けましょうか。

田村:やったア。有り難うございます。

市川:当たったらですよ、あくまでも。

田村:あらっ。で、問題は何ですか。

市川:神様の愛や恵み深さが最初に現われたのは、いつだったでしょうか。神様はご自分がそのような方だということを、最初にいつ示されましたか。

田村:聖書は、キリストが十字架で死んでくださったのは罪人の身代わりであるとか、罪人のための神の自己犠牲とか言いますから、キリストの十字架の死のときでしょうか。いや、旧約聖書の時代に既に神様はイスラエルの人たちに恵み深いことをいろいろの仕方で示しておられたから旧約時代かな。

市川:旧約時代といっても長いですよ。

田村:アブラハムという人に神様は特別に現われて、アブラハムとその子孫を全世界の人々の中で祝福すると言われましたから、アブラハムのときでしょうか。

市川:ファイナル・アンサー?ちょっと古いですね(笑)。

田村:うーん。アブラハムよりもっと前には、ノアという人もいましたよね。ノアの箱舟のお話も神様がノアたちに恵み深かったことを言ってますね。ということは、ノアのときかしら。

市川:さあ、どうします?

田村:オーディエンス―これも古いですね―だめかしら。

市川:スタジオのガラスの向こうの部屋に何人かいますけど、さあ頼りになるかな。ごめんなさいね。

田村:そうだ。もっと前だわ。最初の人アダムとエバに対して神様は憐れみ深かったんですよね。アダムとエバが罪を犯して、自分たちが裸であると分かったとき、急いでイチジクの葉っぱを取って腰に巻いたんだけれど、そんなものじゃ間に合わない。そのとき、神様のほうから、動物の毛皮で腰を覆うものを作ってくださった。ですから、アダムのときです。

市川:アダムのとき。もっと正確に言うと、アダムに何をされたときですか。腰の覆いを作ってくださったときですか。それともその前に書いてある、神様の約束、将来エバの子孫から一人の人が出て来て、人間を誘惑し騙した悪魔を滅ぼすという約束をお与えになったときですか。

田村:あっ、そうか、そっちのほうが早かったですね。じゃ、神様が最初の人アダムとエバにその約束を与えられたとき、ですから、罪を犯し堕落した直後です。

市川:ファイナル・アンサー?

田村:ファイナル・アンサー!

市川:(しばらくして)残念。

田村:えーっ?どうして。もっと前なんですか?堕落直後だから、随分早いと思ったんだけどな。堕落より前ってことはないでしょ?

市川:実は堕落前なんです。神様がアダムに最初の戒めをお与えになったとき、そのとき既に神様が憐れみ深い方であることが示されていたんです。

田村:最初の戒めって、あの、エデンの園のどの木からでも思うままにとって食べてもよいけれど、中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはならないっていう、あの戒めですか。

市川:そうなんです。その戒めなんです。

田村:でもこれって、戒めっていうか、命令なんですよ。イエス様を信じたら救われるとか、神様の約束を信じたら救われるというんじゃなくて、戒めを守れっていうんですから。恵み深いとか、憐れみ深いという感じじゃないんじゃないですか。

市川:たいてい、そう思いますね。でも、よーく考えてくださいね。私たちは今既に罪深くなってますから、自分の知恵だけは神様の御心を完璧に知ることができませんし、自分の力だけでは神様の要求を完全に守り行うことはできなくなっています。でも、最初の人アダムはどうだったでしょうか。それに、アダムに与えられた神様の戒めは何でしたか。

田村:エデンの園の中央にある善悪を知る木の実から取って食べてはならないということでした。

市川:そうですね。真理子さん、それってむずかしいですか。

田村:えっ?うーん。

市川:神様はね、何かをしろと言ったんじゃないんです。エデンの園のどの木からでも思いのままに取って食べてよいということですから、こんなありがたいことはないですよね。

田村:そりゃ言われてみたらそうだけど、神様の戒めですから簡単に行えるとは思えないですわ。

市川:この点を他の物語と比べて、はっきりさせましょう。真理子さん、かぐや姫のお話、知ってますか。

田村:知ってますわ。竹取物語でしょう。

市川:そうです。絶世の美女であるかぐや姫に一目会いたい、何とかして自分のものにしたいという人がわんさかやって来たけれど、かぐや姫は問題にもしなかった。けれども、おじいさんの頼みで、5人の貴公子のプロポーズを受け入れた。但し、条件があり、それを果たした人と結婚しましょうということになった。かぐや姫は彼らにいろいろのものを持ってくるように言います。例えば、インドの仏の石でできた鉢を取って来い、東の海の蓬莱の山から銀の根、金の茎、白い玉の実を付けた木の枝を取って来い、中国にある火鼠の皮衣を取って来い、龍の首にある光る五色の玉を持って来い、燕の子安貝を持って来いと、まあ、ありもしないものを要求し、無理難題を突き付けたという訳です。かぐや姫を手に入れたければ、実際には不可能なことをしなければならないんです。これは気の毒ですよ。

田村:最後は結局みんな失敗したんでしょ。

市川:そうです。最後に天皇がかぐや姫に会いたいと遣いの者を送ったんですが、結局会えなかった。姫は自分の形見に不老不死の薬を天皇に贈ったんだけれど、姫のいないこの世でそんな薬をのんで生き続けても空しいということで、それを富士山に捨ててしまったということです。かぐや姫の物語は人間の真の、究極的な喜び・望みを問題にしています。聖書的にいえば、結局は永遠の命、本当の救い、もっと言えば神との交わりこそが人の究極の望み・喜びなんですが、それはしかし、人間がどんなに努力しても、難行苦行しても得られないという一種の悲劇なんです、この物語は。

田村:そうですね。それとアダムの戒めとはどう関係するんでしょう。

市川:そこなんです。かぐや姫は自分にプロポーズしに来た人に無理難題を突きつけました。しかし、聖書の物語では、神様はアダムが神様と交わり、永遠の命のうちに生きるためには、何も難しいことを要求されませんでした。どこかに行って何かを持って来いとか、これこれをせよということではなく、善悪を知る木からは取って食べるなということだけです。取って食べなきゃいいんです。アダムはその木の実を食べなければ死ぬという訳ではありません。ギリシア神話にプロメテウスの火というのがありますが、プロメテウスは太陽の神アポロンのところに行って火を盗み、そのために体を焼かれることになります。しかし、そのお蔭で人類は火を使うことができるようになりました。火は人間生活に不可欠ですね。しかし、これもアダムの場合とまったく違いますね。アダムは自分のためにも、人類のためにも、その善悪を知る木の実を食べる必要はありません。真理子さん、子供のとき学校で、この問題できた人から遊んでもいいなんて、先生に言われたことありません?

田村:どうだったかしら。

市川:私はよくありましたねえ。そして、全然できなかったんですよ。先生を恨みましたね。この先公、こん畜生なんてね。でも、よくできる奴にとっては有り難いんですね。なんて優しい先生だろう、こんな簡単な問題できたら帰っていいなんて、ということになる訳ですよ。

田村:そうですね。何かをしなさいというんじゃなくて、これを食べてはいけないというだけですからね。しかも、食べなくても何の不都合もないですからね。

市川:そういうわけで、神様は人間を創造し、最初に関わりを持たれたそのときに既に、恵み深い方、憐れみに満ちた方だったわけです。そして、実は、聖書に記されているすべての神様の御心・戒めは結局、この最初の御心を基にしています。

田村:そうなんですか。

市川:はい。イエス・キリストによって罪人を救う・命を与えるというのも、アダムに対するこの最初の御心を実現するためです。もし、この最初の戒めが、つまり最初に明らかにされた御心が恵みでなかったら、神はなぜ罪人を救おうとされたのでしょうか。ただ罪を罰するだけでよかったはずですね。神は初めから「採って食べると、必ず死ぬ」つまり罰すると言われたわけですから。

田村:そうですね。

市川:罪人を赦し、命を与えるなどというのは、神にとって自己矛盾ではないでしょうか。しかし、最初の戒め、意思表示が恵み深いものであればこそ、罪は罪として罰しつつも、罪を赦し、命に生かせることが自己矛盾でないどころか、神の一貫性・信実性となって明らかになるわけです。神様は、たとえ何が起ころうと、何をなさろうと、私たち人間に恵み深い方です。疑う必要はありません。

田村:なるほどね。市川先生、ありがとうございました。

市川:ありがとうございました。お茶とケーキはまたいつか。

田村:はい(笑)。来週も市川康則牧師の「信仰直言コーナー」をお送りします。来週も続けて、この番組をお聞きください。

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