わたしは必ずあなたと共にいる②

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聖書の言葉

神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」

旧約聖書 出エジプト記 3章12節

杉山緑によるメッセージ

高校2年生のクリスマス、私は信仰告白をしました。私の通っていた高校は、ミッションスクールで、12月に行われる学園のクリスマス礼拝では、その年に洗礼を受けた生徒に対し、校長先生が聖書を記念として下さることになっていました。私も他の10人程の生徒達と一緒に笑顔で「おめでとう」と言われ、握手をしていただきました。本当に幸せな瞬間でした。いただいた聖書には、出エジプト記第3章12節「私は必ずあなたと共にいる」1981年クリスマス主に従って歩みはじめられたことを祝って、と書かれてありました。

では、そんなわたしがいつクリスチャンになったか、ということについて、今日はお話させていただきます。一言で言うなら、それは最近 です。最近やっとクリスチャンになったと思えてきたのです。クリスチャンホームに生まれた人間が、クリスチャンの伴侶を得、2人の息子と共に4人で信仰生活を送り続けている。それなのに、やっと最近クリスチャンになった、と言うと、今までは何だったかと思われるかもしれません。でも、来年50歳になる私の人生を振り返ってみると、言葉は悪いのですが、長い間、ニセモノのクリスチャンだったなあ、と思うのです。

よく「主に依り頼む」という言葉を耳にされるかと思いますが、今にして思うに、私は依り頼み方が間違っていたように思うのです。毎日幾度も祈り、聖書も読んでいました。クリスチャンとしてなるべく責められるところのない、正しい者になろうともしていました。でも、私の祈りには決定的な誤りがありました。自分自身について、祈らない部分があったのです。自分の欠点や願いについては、よく祈っていました。自分の家族や大切に思う人のことも丁寧に祈っています。「本当に神様に守っていただかなくてはどうすることもできない、どうか正しくお導き下さい」と深く祈るのです。

それにひきかえ、自分自身の気に入ってる点や割合うまくできると思えることについては感謝の祈りこそすれ、依り頼むなどという姿勢では祈ってこなかったのです。それはつまりこういうことです。「神様が下さっている恵みによって、私のここの部分は大丈夫ですから、心配していただくには及びません」と。自らの生活を、神様を仰ぎみる時と見ない時、神様に助けてほしい時とその必要を感じない時とに分けていたのです。無意識に、自分で神様の御手の働きを決めていたわけです。私はその傲慢さに長いこと気づかずに生きてきました。

神様を心に迎えいれないということは、代わりにサタンが入ってくるということです。自分が気にいっている長所が実は一番罪をおかしていたのです。短所は、何ごとかをなす程の力も持ち合わせていない部分だからこそ、主が働いて用いて下さるのです。そして、その長所からでる罪は自分の良しとする価値観からうまれるものだから、なかなか気づきもしないし、幾度も繰り返され、やっと気づいた時には非常に手痛い結果を招くのです。これまでの人生の中で、幾度となく私は精も根も尽き果てる程祈らざるをえないことに遭遇しました。

それでもなお、しばらくの時間が過ぎれば 、同じことのくりかえしでした。そういう性格なのだと言ってしまえば、そうかもしれません。けれども、そういう性格だからという理由で、罪をおかしていいことにはなりません。ちょうどイスラエルの民がエジプトから出ていく時に、海を2つに分けて道を造っていただいて敵の手から逃れたり、数えきれないほどの恵みを受けたにもかかわらず、地味な日常生活の中で本当に依り頼むべきものを見失っていったのと同じでした。私も長い間そのことに気付く必要があることすら気がつかなかったのです。

神様はこんな私をよく忍耐して待っていて下さったなあと今更ながら頭が下がります。全く神様は私の目の前にずっとお立ちになっていらして、何度もさまざまな事を通して、気づかせて下さろうとしていたのですが、本当に雑音だらけの生活を送っている私にはサッパリその御声は聞こえなかったので、返事もせず、ずいぶん見当違いな祈りばかりしてきました。

でも、人生が長いのは、何度でもやり直せるためです。今が何歳かにかかわらず、気づいたら、そこからでいいのです。「大変お待たせしました。」と、素直に頭を下げて、そこから始めていいのだと思います。いつ、どんな形で気づくかわからないからこそ、毎日、継続して聖書を読み、祈り、とにかく礼拝にでる。そうすると、いつか人生のどこかで、必ず神様が自分に気付かせて下さるものがあるはずです。確かに即効性はないやり方だし、毎日なんて気が重いと感じるかもしれません。でも、信仰に手っ取り早いやり方はありませんし、身にもつきません。そして、 このクリスチャンとして歩む道のりが素晴らしいのは、いつか目がかすんできて聖書が読めなくなっても、心のうちに蓄えてきた御言葉を引き出してきて味わうことができます。歳とって、声がかすれてきた折にも、心のうちで何度も賛美した唄を思い起こして、そのおかれた状態のまま主に賛美を捧げることができます。祈りの言葉さえ口から出せなくなる日が来ても、主ご自身がそばにきて手をとり、背中を撫でて下さって、慰めを下さいます。御国に入るその時まで、神様は何度も貴方の名を呼びながら貴方の人生を貴方と共に歩いて下さるのです。それこそがクリスチャンである恵みです。

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