わたしは必ずあなたと共にいる①

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聖書の言葉

神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」

旧約聖書 出エジプト記 3章12節

杉山緑によるメッセージ

はじめまして。私は奈良に住む48歳の主婦です。これから私がどのようにクリスチャンになったのか、ということについてお話しさせていただきます。

私は両親がクリスチャンでして、赤ん坊の頃から両親と共に教会に通い、物心がついてからはずっと神様の存在を信じて育ちました。そんな私に転機が訪れたのは、小学校6年の時でした。ちょうどイースターの前で、イエス様が十字架におかかりになるところを聖書で読んでいた日のこと、何かがおかしいと感じたのです。幼い頃から聖書に親しんできた私ですが、それまで一度も感じたことのない疑問でした。それは、何でイエス様が一人で十字架にかかるんだろう、というものでした。

ソロモンが神様の言いつけに背 いて、他の神々に仕え、その結果、ソロモンが罰を受ける。同じように、私が悪くて十字架にかからなきゃならないならわかるし、私一人じゃ怖くてできないから、一緒にイエス様が側についてきて下さるというのなら理解できる。でも、実際は私はここにこうしていて、イエス様一人が十字架におかかりになった。これは何だろうと思いました。とんでもないことをイエス様に肩代わりさせてしまったと思いました。そしてしばらく考え、そこまでして下さるほどイエス様が私を守ろうとして下さったのなら、私もイエス様にはっきりと従って生きるべきだと考え、父に「クリスチャンになる」と言いにいきました。

ところが、父の答えは私の予想に反し、「まだ早い」と、一言言っただけでした。私はてっきり父 が祝福してくれるものと期待していましたし、話も聞かずに一刀両断にした父は普段教会の中で見る父とは全く違っていて、私は強 い不信感に襲われました。そして、それ以来、礼拝に出席はするものの、教会やクリスチャンというものに何か打ち解けられない思いを抱いたまま過ごしました。もしかしたら自分の知らない真実が教会以外の処にあるのかもしれないとも考え、近所のお寺で開かれる講話会に1年間出席したり、また、夏期講習を受けた会場の近所にあったカトリック教会で、シスターにお話を伺ったり、コーランや文庫になっているようなものも幾つか読みました。けれどもそれらの体験はものを考えるよすがにはなっても、どれも私の問いに対し、明確に答えてはくれませんでした。

こうしてもやもやした気持ちのまま高校受験の時期になり、私はとあるミッションスクールの高校に入りました。その高校では毎朝礼拝が行われま したが、私はそれまで自分の通う教会以外で礼拝に出たことがなかったので、とても新鮮でした。そして、ある日の礼拝で校長先生がこう強く仰ったのでした。「神様がcallして、それにresponseする。それがあなたのresponsibilityです。そうであるならば、そんなふうにだらだら過ごしている場合ではありませんよっ。人生で1番、真理に対して鋭い感受性を持つ今、わからなくてはならないことです。」

ものすごいショックでした。神様が呼びかけて、それに応答する、それが私の人生の義務である。頭の中で何度も何度も繰り返しました。非常にシンプルなメッセージではありますけれども、同時にこんな強烈なメッセージは聞いたことがないと思いました。ただ、神に応答すること、それのみ。何かを神様の前で為そ うなどという思い上がりではなく、ただ応答する。よく考えれば、どの分野に対しても責任をとれず、何かができるほどのものも持ってない私です。決意したそばから、違う方を向く私です。本当にうちのめされた思いでした。その後も校長先生の礼拝説教や聖書の時間で語られることを注意深く聞いていくうちに、「この人の言葉を正しく理解したい」と思うようになりました。そして、次第に、自然に「神が私の名を呼び、私は顔を上げて応答をするのだ 」という校長先生の言葉が自分のものとなっていきました。

ただ、同時にはっきりしたのは、神に応答したくない自分、神に見られたくない自分、神からどうにかして逃れたい自分がいることでした。それは受け入れがたくも事実でした。そこで、高校2年の修養会でしたか、移動時間にすばやく校長先生の横に行き、その旨を述べました。すると、階段の踊り場で先生は足を止め、「私もね。この歳になっても、そこに付き当たるんです。でも、そうですか、貴女はそれがわかったんですね?」と仰いました。そしてそのまま先生は他の人たちに取り囲まれて去ってしまわれましたが、私の目からは涙がボロボロこぼれて、なんというか「大変よくできました」の印をもらったような感動でいっぱいになっていたの でした。

そして秋、たまたま廊下ですれ違った友達から、その年洗礼を受けた人には、学園のクリスマス礼拝で校長先生のサイン入りの聖書を貰えることになっていると聞きました。それまで私の心には、あの小学校6年の時の父とのやりとりがまだわだかまっていて、あえて波風をたててまで洗礼を受けなくてもいいんじゃないかと思っていました。でもその友達の話を聞いて、私の人生にこれほどまでの衝撃を与えて下さった先生からサイン入り聖書を手渡され、「おめでとう」と言ってもらえる場面を想像した私は、その日のうちに教会の牧師先生に電話をかけ、信仰告白をしたい旨をお伝えしたのでした。そして、無事その年のクリスマスに信仰告白をしたのです。後日、教会でその洗礼式の様子を写した写真をいただきました。 そこには、号泣している牧師先生と少し困った顔をしている私、そして画面の端には穏やかな笑みを浮かべている父が写っていたのでした。

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