ジャン・バルジャンの回心

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聖書の言葉

この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

新約聖書 ルカによる福音書 7章37~38節

岩崎謙によるメッセージ

今回のラジオ放送では、2週にわたり、昨年評判になった映画『レ・ミゼラブル』を取り上げます。

原作は、150年前に書かれたビクトル・ユーゴーの小説「ああ無情」です。今回のものは、大ヒットしているミュージカルが映画化されたものです。

今日の題には、「ジャン・バルジャンの回心」とつけました。ジャン・バルジャンが、映画の主人公です。今日は、彼のことをジャンと呼びます。ジャンは、長年の苛烈な投獄生活で、身も心も、ぼろぼろになっていました。しかし、出獄して、ミリエル司教と出会うことにより、人生が変わりました。銀食器を盗んだジャンが警官に捕まったとき、ミリエル司教は、警官に対して、わたしが銀食器をあげたと語り、さらにジャンに対して、この銀の燭台も持っていくがよいと差し出しました。ジャンは、一生涯、ミリエル司教から与えられた燭台を手放すことはありませんでした。小説によれば、ジャンが最後の息を引き取る場面も、この燭台の光がジャンを照らしていました。燭台の光は、神の赦しの恵みを象徴的に表しています。ジャンは、自分が罪深い者であるにもかかわらず、赦されたことを忘れることなく、貧しい人、弱い立場の人に寄り添い、彼らに愛を注ぐことに自分の人生を献げました。

この映画を観たとき、実は、わたしの心には、一つの御言葉が宿っていました。それは、ルカによる福音書7章の物語です。ファリサイ派のシモンに家に、主イエス・キリストが招かれました。すると、その町で罪深い女と呼ばれている人が、主イエスに会うために、シモンの家に来ました。当時の食事は、椅子とテーブルではなく、たとえば、畳に足を投げ出すような姿勢で行われます。彼女は、イエス様の後ろから近づき、横に投げ出されている主イエスの足元に立ちます。すると、彼女の目から涙が流れ落ち、主イエスの足を濡らします。彼女は、座り込み、自分の長い髪で、主イエスの足を拭き、主イエスの足に接吻して、主の足に香油を塗りました。シモンは、彼女の行為を見て、罪深い女の下品な所作と見なし、彼女を見下げ、また、その彼女の愛を受けておられる主イエスをも軽蔑しました。

主イエスは、次のような譬えで、そのシモンに対して問いを投げかけられました。「50万円の借金を赦された人と500万円の借金を赦された人がいたとすれば、どちらの方が赦してくれた人をより多く愛するであろうか」と。シモンは、帳消しにしてもらった額の多い方である、と答えます。すると、主イエスは、シモンに彼女を見るように促し、主イエスはシモンに語られました。

「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

以前の彼女は、確かに、罪の女と呼ばれるに値するような行いをしていたのでしょう。しかし、彼女は、主イエスとどこかで出会って、罪を悔い、主イエスに罪を赦していただいた体験をもっていました。彼女は赦しを受けた感謝を表すために、シモンの家に来ていたのです。主イエスは、彼女の愛は、彼女の赦された喜びと感謝とから溢れ出ているものであることを、シモンに説明されます。そして、彼女の主イエスへの愛と、シモンの主イエスへの愛とを比較して、シモンは自分は赦される必要がないと思っているから、わたしへの愛も少ないと語られました。彼女を見下げ、主イエスをも軽蔑していたシモンの冷たい心が、主イエスの御言葉により、明るみに出されました。

話を映画に戻します。実は、ジャンの回心の場面は、映画と小説では違っています。小説では、映画では割愛されていた場面が丁寧に描かれています。ジャンは、ミリエル司教の赦しを受けてすぐ、プティという楽器演奏で日銭を稼ぐ少年と出会います。少年の銀貨が、ジャンの足元に転がっていきます。ジャンは、その銀貨を踏みしめ、プティを威嚇し、追い払います。その時、我に返ります。小説のその場面を読みます。

「俺は、なんとろくでなしなんだ!」

胸が苦しくなり、涙がどっと湧き上がる。19年ぶりの涙だった。中略泣いているうちに、心のなかがどんどん明るくなり、そのとてつもない輝きが急激に明るさを増してすさまじいものへと変わっていった。中略司教の家での出来事、いましがた少年から40スー銀貨を奪うという、司教に諭されたあとなのに、いままで以上の愚劣で悪質なことをしてしまったこと。そういった諸々がはっきりと頭のなかに浮かんできたが、それと一緒に光も見えている。中略自分が何を考えていたかに気付いて、ぞっとする。でも、過去と魂に、やわらかな光が差している。

ジャンは、罪を赦されても、無慈悲にしか振る舞えない、自分がどれほど酷い人間であるかに気づいています。しかし、その悲しみは、光の体験として描かれています。光は、自分の罪深さに絶望するなという神からの励ましと神に赦されているというジョンの喜びとを表しています。

ミリエル司教の赦しは、聖書が語る主イエス・キリストの赦し、また、神の赦しを指し示すものです。ジャンがミリエル司教と出会う体験を、すべてのキリスト者は主イエス・キリストと出会う中で味わっています。主イエスは、足に接吻を続ける彼女に語られました。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」どうか、主イエス・キリストと出会い、主を信じてください。主イエスが与えてくださる安心の中で、赦しの光を体いっぱいに受けて、人生を歩んでください。

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