信仰直言「万事を益とすることができる神」

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聖書の言葉

特定の引用箇所はありません

旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:お早うございます。田村真理子です。先週に続き、今週も市川康則牧師の「信仰直言」コーナーです。市川先生、お早うございます。今日も宜しくお願いします。

市川:お早うございます。宜しくお願いします。

田村:摂理のお話しの続きをお願いします。

市川:はい。先週申しましたように、神様の創造から終わりの完成までの全部が神様の摂理です。

田村:はい。

市川:言い換えると、神が創造されたすべてのものを、完成に至るまで支配なさること、あるいは、支配して完成に至らせること―これが摂理です。

田村:はい。ところで、「支配」というと、何だか怖いような、重苦しいような響きがありますね。

市川:はい。しかし、ここで重要なことは、その支配は決して、暴君のような、冷酷で無慈悲な支配ではないということです。それどころか、実に憐れみ深い支配、支配という言葉では言い表せない、神様の世話・保護、寄り添ってくださることです。神様は創造したもの―人でも動物でも植物でも自然で何でも―それら自身の特徴、性質、強さ・弱さに応じて、それにご自分を合わせるようにして支配なさるということです。

田村:神様が寄り添ってくださるのですか。

市川:はい。もちろん、摂理自体は神様の働きですが、しかし、その中で、例えば自然法則とか、人間の自由意志などを用いて、それらが抹殺されることのないように、むしろ、それらがちゃんとした位置を占め、役割を果たすことができるようにして、支配なさるということです。

田村:何か分かりやすい例はありませんか。

市川:そうですね。例えば、親子が山歩きをしているとしましょう。親は子に山歩きの楽しさを経験させようとして、あるいは、子供の心と体を鍛えようとして、子供の歩長にあわせて一緒に歩いたり、ときには少々早く歩いたりします。しかし、子供が疲れて歩けないとき、あるいは、子供が自分の好きなところに行こうとして危険な目に遭いそうになるとき、子供の意志に反して、手を引っ張ったり、体を抱き上げて進んでくれます。子供にとっては、自分の足で歩くのと親が抱き上げて歩いてくれるのとでは、自分にかかる負担としてはまったく違います。しかし、親には子と一緒に歩くことと、子を抱き上げて歩くこととの間に違いはありません。そして、どちらの歩き方も、親の始めの意図ないし目的に向かっています。親の自己満足ではなく、また、親なしの子供だけの冒険でもありません。山歩きを終えたとき、子供は子供なりに満足し、喜びを覚える。そうして、子供に対する親の最初の目的を達成する。これが摂理です。

田村:なるほど。神様は人間のこと、造られたすべてのことをちゃんと理解して―というか、当たりませなんでしょうけれど―人間や世界が成り立つように、その意味とか価値とか目的が確立するように、守り、導いてくださるということですね。

市川:そのとおりです。考えてみれば、聖書はすべて神様の摂理の記事ですね。

田村:そうですよね、創造から終わりの完成までが摂理ですから。旧約聖書の最初は天地創造の記事、新約聖書の最後はヨハネの黙示録ですが、最後の審判と救いの完成の記事ですから、その間はすべて摂理ということになりますね。

市川:そうですね。しかし、聖書の摂理は単に、神様の一般的な支配ということではなく、その教えの中心は、私たちがどんな困難なときでも神様を信じ、神様に信頼して生きることができるし、また、そうすべきであるということです。

田村:何か具体的な記事がありますでしょうか。

市川:代表的なものをご紹介しましょう。旧約聖書の創世記に、神がアブラハムにひとり子イサクを燃やし尽くす犠牲として捧げよと命じられた記事があります。これは彼にとって辛い試練でした。そんなことをすれば、彼の家が断絶します。しかも、神は彼の子孫が天の星、海辺の砂のようになると約束されましたが、ひとり子がいなくなればこの約束はパーになります。

田村:そうですね。

市川:しかし、神様の命令ですから、従わない訳にはいかない。アブラハムは息子を連れて犠牲を捧げるために旅をします。その途中で、息子に犠牲の動物はどこにいるのと聞かれます。アブラハムはやむなく「神ご自身が備えてくださる」答えましたが、これは決して強い確信の表明ではなく、むしろ、苦し紛れの解答です。と、同時に、神への漠然として期待や願いでもあります。ともかく、彼は試練の中で神に従い、まさにイサクを殺そうとしたそのときに、神は待ったをかけられました。神様はアブラハムの信仰と従順を確認し、それを宣言されました。正にアブラハムは信仰の人です。アブラハムが見ると、何と、そこには神が用意された犠牲の動物、雄羊がいました。一人息子は彼の許に無事戻されました。アブラハムはこの出来事のあった場所を「アドナイ・イルエ」と呼びましたが、これは文字通りには「主は見る」という意味です。つまり、神は先の事を既にちゃんと見ておられるから、それにふさわしい備えをすることがおできになるのです。興味深いことに、摂理のことを英語で「プロヴィデンス」と言いますが、元になったラテン語は「予め見る」という意味の言葉です。ヴィデオというのはご存じですね。見るものですね。

田村:はい。

市川:「プロ・ヴィデーレー」というラテン語は「前もって見る」という意味です。ところで面白いことですが、英語に「プロヴァイド」という言葉があります。インターネットの「プロヴァイダー」というのがありますね。

田村:はい。インターネットの接続を提供する業者のことですね。

市川:そうです。「提供者」という意味です。「プロヴァイド」は辞書を見ると「提供する」「供給する」などと訳されています。英語の綴り(provide)をローマ字読みすると「プロヴィデ」となります。つまり「プロヴィデンス」です。予め見て、知っているから、供えることができるという訳です。アブラハムは知りませんでしたが、神様はアブラハムの必要をちゃんと見ておられ、知っておられましたから、それを備えられました。まさに摂理をなさった訳です。

田村:なるほどね。

市川:先ほど、神の摂理は人間の状況に応じてなされると申しましたが、ここではアブラハム自身の状況に応じて、彼の役割を十分に用いて摂理がなされています。アブラハムはこの時点では、神が必ず息子に代わる犠牲動物を備えてくださるとは信じていません。しかし、それでも、神の命令だからということで、犠牲を捧げる旅に出かけたのです。本当に息子を捧げるつもりでした。いや、信仰的には既に捧げていたのです。アブラハムは理解や納得ができなくても、神に従った訳です。その結果、神は彼の思いもしなかった仕方で道を開いてくださったのです。

田村:すごいですね、神様は。

市川:もうひとつ、極め付けを。

田村:何でしょう。

市川:イエス・キリストです。キリストは神様に完璧に信頼し、神の約束と目的の完全実現を信じ、それに向かう中でご自身の役割を自覚しされました。キリストの十字架の死は、一面では、神とキリストに逆らう罪人の悪意のなせる結果であり、キリストの敗北、彼らの勝利でした。しかし、その反面、いや、根本的には、キリストの死はこの世の罪に対する神の裁きでした。キリストは、罪人を代表して、罪人に代わって神に裁かれたのです。それによって、人間の罪が処置され、赦されることになったのです。キリストの死は人間の悪巧みによって引き起こされましたが、神はその悪を逆に用いて、ご自身の善を―罪の処罰と罪人の赦し―を実現されたのです。キリストの完全な従順と罪人の悪意という人間の側の事情を用いて、しかし、ご自身の目的を完成するという、正に神の摂理です。そして、キリストの人間としての生き方は十字架の死で終わったのではなく、死からの復活へと至ったのです。苦難が栄光のきっかけとなる、あるいは、栄光へと転換される最大の事例です。キリストは正に神の摂理信仰に生きられたのです。それで、キリストを信じるわたしたちもまた、キリストに従って、神の摂理への信仰によって生き、神と人に奉仕することができるのです。

田村:すごーいですね、神様は。人間の罪や悪を逆の仕方で用いて、人間の救いを実現されたとは。

市川:そうですね。これが摂理信仰、摂理信仰に生きるということです。私の人生は偶然や運命のなせるいたずらではなく、すべてを前以って知っておられる神の摂理として受け止めるときに、困難の中でも希望をもって生きることができる秘訣です。

田村:はい。市川先生、2週続けてお話しくださり、有り難うございました。また、いつかお願いします。

市川:はい、生きていれば(笑い)。こちらこそ、有り難うございました。

田村:ラジオをお聞きの皆様、如何でしたか。今週も神様のお守りとお導きが豊かにありますように、お祈りいたします。

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