真(まこと)の謙遜とは

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聖書の言葉

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

新約聖書 ルカによる福音書 18章13~14節

金昭貞によるメッセージ

私は日本に来て今年で6年目になりますが、日本で生活しながら日本人の気質と日本文化を通していろんなことを教えられています。その中でも、日本人の謙遜さにはいつも感動させられます。高ぶることなく、へりくだって相手を尊重する姿は私も見習うべきだと思います。ところで、謙遜というのは、ただ高ぶらず、へりくだれば、それだけで謙遜であると言えるのでしょうか。そこで、今日は、今日のお話しに出て来る二人の祈りを通して聖書は謙遜についてどのように教えているのか耳を傾けたいと願います。

今日の御言葉の全体の内容を見ますと、二人のユダヤ人が出てきますが、一人はファリサイ派の人であって、もう一人は徴税人です。まず、ファリサイ派の人の「ファリサイ」という言葉の意味は「分離された者」という意味です。すなわち、律法の掟を守っていない人々と分離されて、自分たちは律法の掟を忠実に守っているという意味でファリサイ派と呼ばれたのです。従って、ファリサイ派の人は律法の掟をちゃんと守り、忠実に行いました。例えば、毎週、二回は必ず断食をし、また、収入の十分の一は献金しました。こういうわけで、ファリサイ派の人はユダヤ人社会の中でもっとも尊敬されたグループでした。一方は、徴税人ですが、当時、ユダヤ人はローマ帝国の支配下にあったので、ローマ帝国に税金を納めなければなりませんでした。このローマ帝国に税金を納める仕事を徴税人がしたわけです。しかし、徴税人は同族のユダヤ人から税金を徴収する時、必要以上の税金を取り立てて、一部を自分のものにする方法で私腹を肥やしていました。そのため徴税人はみんなから嫌われていました。ユダヤ人は徴税人をとても嫌っていて、付き合おうとしなかったのです。

このような、ファリサイ派の人と徴税人が神殿に上って神様に祈りを捧げました。二人の祈りの姿を見ますと、ファリサイ派の人は頭を上げて天を仰ぎながら、みんなに聞こえるような大きな声で次のように祈りました。「神様、私はほかの人達のように罪を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています」と胸をはって祈りました。一方、徴税人は、人々から遠く離れたところに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながらこう祈りました。「神様、罪人の私を憐れんでください。」徴税人はただ、「神様、罪人の私を憐れんでください。」と祈ったのです。それでは、この二人のうちイエス様から義とされたのはどちらでしょうか。イエス様は次のようにとおっしゃいました。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」。義とされて家に帰ったのは、この人、すなわち、徴税人であって、ファリサイ派の人ではなかったのです。イエス様から義とされたのは、律法の掟をちゃんと行っていたファリサイ派の人ではありませんでした。

イエス様はなぜこのように評価されたのでしょうか。それはファリサイ派の人は高ぶっていたからです。彼は自分が罪人ではなく、いろんな律法の掟を行っていることについて感謝する祈りをしました。しかし、それは主に捧げる祈りではなく自分がどれほど偉いか自慢する自慢話にすぎませんでした。ですから、イエス様は律法の掟を守っていることで、へりくだらずに思い上がっているファリサイ派の人を義とはされなかったのです。一方、イエス様が義とされたのは、自分が罪人であることを認め、主の憐れみを求めた徴税人でした。つまり、ファリサイ派の人が義とされなかった理由は、ただ、彼がへりくだらず自惚れていたからだけではなく、自分が罪人であることを認めず、イエス様の憐れみを求めなかったからです。

このことから私たちは「謙遜」について学ぶことが出来ると思います。まず、英語では謙遜を表す言葉として「Humble」という形容詞がありますが、これは「土」を表すラテン語「Humus」に由来するそうです。ところが、人類最初の人である「アダム」の名前も実は「土」を表す「アダマ」というヘブライ語に由来するのです。謙遜の言葉も最初の人アダムの名前も、両方とも「土」から由来する言葉です。つまり、Humble, 謙遜という言葉は「人間は土にすぎない存在である」ことを示しているのではないでしょうか。従って、本当の謙遜は土にすぎない、土によって造られた人間が、創造主である神様に背いた罪人であることを認めることです。「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈った徴税人のように、ただ、主の恵みを求めることそれが謙遜です。人の前でへりくだることではなく、主イエス・キリストの十字架の前で主の恵みを求めること、それこそが真の謙遜なのです。神様は胸をはって祈る者ではなく、胸を打ちながら主の恵みを求める者を義としてくださり、高くしてくださるのです。どうぞ、あなたもイエス様の御前にへりくだり、真の謙遜の道を共に歩んでみませんか。

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