神に生かされる良き生を生きる

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 11章25~26節

大野桂一によるメッセージ

今年私は6回目の年男、既に親友を失い、暮には同級生などの喪中のハガキも届きます。「あと何度この桜の花を見られるのか」と、ふと命の限界は思いますが、それでも死は、私にとりまだ遠くの存在で、具体的に想像出来ません。

死は、歳をとり死ぬだけでなく、日々に死と生は隣り合わせ、いつ突然起こるかもしれません。それなのに私たちは自分の死を、余り真剣に考えていないのではないでしょうか。

あなたは、死は何もかも無に帰するもので、考えても分からぬ事であり、死を遠ざけ考え無い様にされていませんか。それとも、死ねば誰でも天国に行き、家族や親しい人々と再会できる、と楽観されておられますか。死後、神の裁きがあるかもしれないとの不安・恐れはありませんか。

今朝は死について聖書はどのように言っているのか共に聴きたいと思います。

ヨハネによる福音書11:25~26「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」

あなたは、この言葉をすぐに信じる事がお出来になりますか。私はなかなか信じることが出来ませんでした。それは聖書の言っている「死」とか「生」の意味が分からなかったからです。普通には、生きているとは、呼吸をし、心臓が動いている状態を考えます。

イエスの言われる「生きる、死ぬ」は意味が違います。生きるとは、心臓が止まった死にもかかわらず、なお生きている命をさしています。人間には動物と違い人間にしか生きられない特別な命があるのです。

創世記には2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と教えています。

聖書では、息と霊は同じ一つの単語ですから、息を吹き込むとは、霊を吹き込むということです。霊である神は、人と交わるために、ご自分に似せて人に霊を吹き込まれたのです。人は動物のような生物的な命の他に、神からの命、霊魂が宿っています。人は神と交わって生きるように創造されたのです。神と共にあることが、人にとって生きることなのです。

最初に創造された人間アダムは、エデンの園に置かれ、そのアダムにただ一つの命令、園にある「善悪を知る木の実」だけは食べるな、食べれば死ぬと命令されたのです。

しかし、最初の人アダムは、蛇の誘惑、その実を食べれば、神のようになれるという言葉に負けて、その実を食べてしまい、神を恐れ、避けるようになりました。

神がいなくても自分一人で生きていけるように思い、神から離れ、何でも自分が自分がと自己中心的な者となり、この世に罪と死と悲惨が入ってまいりました。

罪とは、神を忘れ神と交わりのない状態なのです。神の創造の目的から離れ、神無しで生きていくことが罪なのです。罪の報酬は、死です。神と交わりのないことが罪であり、滅びです。動物的命と共に人間の特別な命が滅びるのです。

しかし、神は、神から離れ、自分勝手に生きている私たちをなお愛され、すべての人が罪から救われ、神と共に生きる永遠の命を与えるために、神の独り子イエスを、この世界に遣わされました。神から離れ滅びにいたる私たちを、再び神との交わりに入れ、神と共に生きる永遠の命を得させるためです。

神は、私たちの罪をすべてイエスに負わせ、私たちの罪を罰するために、イエスを十字架に架けて殺されたのです。私たちの罪のために、イエスを身代わりの十字架に架けられ、そしてそのイエスを三日目に甦らされたのです。

死とは、私たちがこの世の名誉・地位・財産など全て剥ぎ取られ、裸の霊魂が神の御前に立つということです。あなたの愛する家族も親しい友人も誰も助けることはできません。あなたの霊魂が、何もかも見通しておられる神の前に、ただ一人で立つのです。

この全く正しく聖(きよ)い神の前に立ち得る人は、誰一人なく、人は神の御前で滅びしかありません。絶望しかないのです。

この絶望から救うために、イエスがこの世に来て、私たちの罪の罰を代わって受けて下さった。従って、このイエスを信じる者は、自分の罪は既に処分済みですから、まだエゴの満ち、罪のしらがみを持ちながらも、罪なき者とみなされ、神との交わりを回復され、神のおられる天国においても、神と共に生きる永遠の命を与えられるのです。

与えられた永遠の命は、ただ死後のことだけでなく、この世にあって大きな生きる力として働きます。

淀川キリスト教病院の元医師で、2500人余りの死を看取った柏木哲夫先生は、「良き生と良き死」という本の中で、こう書かれています。

「人は生きてきたように死んで行く」良き死を死するためには、良き「生」を生きる必要がある。良き生とは「神によって生かされていること」を、徹底的に意識して生きることに尽きると思う。「自分が生かされていること」を掴んでいる人は、本当に死へのプロセスを平安に過ごすことができる。ある52歳の末期の胃癌の女性が入院して来られた。4度の離婚歴があり、30ヶ所も働き場所を変え、荒れすさんだ生活をしてきた方で、不平不満が強く、多くの看護士が泣かされた。しかし病室に毎日流される礼拝メッセージに、少しずつ耳を傾けるようになり、聖書を読まれるようになった。やがて病床で洗礼を受けられた。わずか2週間のクリスチャン生活であったが、表情は一変して柔らかくなり、今までと治療法は変えていないのに、非常に強かった腹部の痛みがとれ、不平を言っていた口より感謝の言葉があふれ、悪魔が天使に変わったように変わられた、と医師としての体験を書かれています。

私たちもこの肉体の生かされている内に、キリストを受け入れ、天国にて神と共に生きる希望に生かされつつ、与えられたこの一度限りの生涯を、「神に生かされる良き生として」全うして行こうではありませんか。

関連する番組