信仰直言「神がいるので、悪でも・・・」

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聖書の言葉

特定の引用箇所はありません

旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:市川先生、お早うございます。

市川:お早うございます。

田村:先週のお話の終わりのほうで、今日のお話はその続きと、おっしゃってましたね。

市川:そうです。

田村:世の中、悪いことばかりで、人生も、耐えらないほどの辛いことが多い中、「神がいるならなぜ悪があるのか」と多くの人が思うんですが、それなら、神がいなければ、人生、良くなるのか、世の中、納得できるのかと言えば、全然そうではない、むしろ、悪がもっと大きくなり、不幸がもっと増える、ということで、結局、人生の前提、世の中を見るときの前提を問題にしなければならないということでしたね。これで間違ってませんよね。

市川:はい。結構です。ご苦労様。

田村:それでは続きをどうぞ。

市川:広島県の竹原市に「ワークホーム聖恵」という名前の施設があります。「聖恵」とは聖書の「聖」、「聖い」という字ですね。それと、「恵」みという字で「せいけい」と読みますが、そこは重度の身体障害者の福祉厚生施設です。真理子さんもご存じでしょう。

田村:はい。元々聖恵授産所という施設から始まったんですが、今では他の様々な働きをする施設と一緒に「社会福祉法人聖恵会」というのがあり、その中の一つの施設あるいは組織がワークホーム聖恵ですね。今、数十人の障害者が訓練を受けておられますが、これまでに多くの方が立派に社会復帰をしておられますね。

市川:この授産所の初代の所長さんは井原牧生とおっしゃっる方で、すぐ近くの忠海教会の牧師でもあられました。何年も前にお亡くなりになりました。この井原所長は、御自身が筋ジストロフィーという、両腕両足の筋肉が完全に萎縮し、無力化し、麻痺してしまう大変困難な障害を負っておられました。私の記憶が正しければ―この頃よくものを忘れますので、間違っているかも知れませんが―確か17歳のときだとおっしゃったと思うんですが―間違っていたらごめんなさい、7歳だったかも知れません-あるときお父様に呼び寄せられました。そのお父様も筋ジストロフィーの障害をお持ちでした。そのお父様が井原青年に言われました。「メンデルの遺伝の法則によればおまえは必ずこうなる」、つまり筋ジストロフィーになるということです。このとき井原青年は死刑宣告にも似た大ショックを受けました。これは、ご本人がそう言われたのです。

田村:本当にショックだったでしょうね。

市川:このとき、そしてこのときからずーっと、井原青年にとって慰めになったのは、田村さん、何だったと思いますか。

田村:何ですか。神様の愛ですか。神様への信仰ですか。

市川:究極的にはそうですが、もっと身近なところでは、何と、神の予定という聖書の教えだったそうです。

田村:えーっ。予定って、あの神の永遠の計画というか、この世界で起こることはすべて神がそのように定められたというあの予定のことですか。

市川:そうです。あの予定です。このように言えば、どうですか、神はなんて薄情な、理不尽なことをこの青年にするのかと思いませんか。

田村:私なら、そんな予定など聖書の教えじゃないと反論したくなります。そんなの、慰めどころか、絶望ですわ。宿命と同じように思いますね。

市川:そうです。たいてい、あなたがこうなるのも神の定めだよなんて言えば、もうど うしようもない気持ちになりますよね。けれども実は、これからが問題なんです。

田村:先週もそんなふうにおっしゃってましたわね。長い前置きですね。

市川:すみません。井原青年はこれを神の予定と見たのですが、しかし、決して運命とか、宿命とか、あるいは偶然というふうには見なかったのです。井原青年は、神を信じていましたが、この神は聖書がはっきりと教える全能で恵み深い神です。意志を持った、主体的で人格的な存在、したがって計画を持ち、目的を持ち、それを確実に果たすことのできる神、この神の計画と支配の中で自分の障害の現実 を見つめたのです。

田村:へーっ。

市川:驚きますよね。世の中の多くの人が漠然と感じているような神ではありません。また無力な神、無慈悲な神などではありません。もしそんな神だったら、井原青年の人生は本当に気の毒で不幸でしかありません。いったい、俺が何をしたというのでこんな目に会うのか、こんな人生、理不尽だ不条理だと言って、やけくそになったり、自殺したりしたかも知れません。でも、聖書の中でご自分を現わしておられる神様は本当に全能ですから、どんなことでも、この自分の筋ジストロ フィーの障害でも、神の意志なしには、神の許しなしには起こらないと信じました。もっと言えば、人間の最大の敵である死でさえも神の支配の下に置かれており、神の許しなしには起こらないということです。意志も目的も持った神ですから、この自分の障害にも何らかの目的があるはずだ、それを知ろう、神はこのような自分に何をさせようとしておられるのか、障害のある私にしかできないことは何だろうかというふうに考えるように導かれたとのことです。

田村:これはもう、運命論とか宿命論ではありませんね。

市川:井原牧師は後年、聖恵授産所を開設し、福祉事業に精を出されましたが、初めのうちは周りからは不審な目で見られたり、どうせすぐにやめてしまうさという目で見られたり、妨害されさえしたそうです。けれども、神の目的、自分の使命という強い信仰に支えられて授産所の働きを続け、後にはそれは県や国が認める立派な福祉施設に成長しました。

田村:本当に大変な中で、見事に成し遂げられましたね。

市川:自分の境遇を神様との関係の中で捉えることにより、将来に向かってというか、未来指向で積極的に厳しい障害の現実を引き受けることができたからです。井原牧師の信仰も立派ですがもっと大事なことはその信仰の元になっている聖書のものの見方考え方なのです。「神がいるなら、なぜ悪が?」という発想、ものの考え方、ではなく、「神がおられるから、悪も・・・!」という発想、前提が大切なのです。

田村:「神様がおられるからこそ、人生の悪も悲惨も真正面から見据えよう、引き受けよう」という姿勢が生まれてくるんですね。

市川:ところが、このような見方・考え方というのは、私たち自身の中から自然発生的には生まれて来ません。外からというか、他の誰かから示されて初めて、そういう見方・考え方があるということが分かるのです。ここに実は、世の中・人生、積極的に生きていく秘訣があります。

田村:自分の中から出て来ないで、外から示されることにですか。どういうことかしら。

市川:田村さん、自分の能力を高めたり、性格を変えたりすることは易しいですか。

田村:いいえ。全然。私なんか、ほとんど不可能ですわ。それができれば、苦労しないですよね。

市川:私も全く同じです。世の中の矛盾や悲惨、私の弱さや悩み、苦しみ、簡単には解決できません。自分の能力や性格を変えよう良くしようなんて、おいそれとできるものではありません。どんなことにもめげない、挫けない意志、誰とでも仲良くなりまた喧嘩もできる性格、どんな問題でもすぐに解ける抜群の頭脳、何でも好きなことができるだけのお金、どんな人間でもあご先で使える地位・権力・・・こんな人生不可能です。

田村:そんな人生、逆に面白くないかも知れませんね。

市川:まあ、たいてい、弱い意志、人と協調できない性格、人の言いなりになるか人使い荒いか、問題の中心がどこにあるかも分からない、お金もない。地位も権力もない・・・まるで私みたいです。ですから、自分自身を変えるなど不可能で、ましてや世の中の矛盾や悲惨を解決するなどということは、とうていできません。それならもうどうにもならないかというと、お話ししましたように、そのような世の中をどう見るか、そんな自分を、自分の人生をどう受け止め、受け入れるかということなら変えることができます。聖書は私たちに、立派な人間になれ、強い人間になれなどと命じません。人生の見方世界の見方を変えてあげようと言っている訳です。それなら簡単ですよね。自分が持っていた考えを捨てて、聖書が提供しようというものを受け取ればいいだけですから。

田村:本当にそうですね。難しいことを要求しているのではなく、心と人生の中に全能で恵み深い神様を受け入れるだけのことですからね。

市川:そうなんです。何もむずかしいことはありません。聖書があげようといっているものを受け取るだけなんですね。

田村:市川先生、2週間、どうも有り難うございました。ラジオをお聞きのあなたは、如何がでしたか。神様は遠い存在ですか、それとも近い存在でしょうか。お話しについてご意見、ご質問などがございましたら、どうぞお知らせください。

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