信仰直言「神がいるなら、なぜ悪が・・・」

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聖書の言葉

特定の引用箇所はありません

旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:市川先生お早うございます。お久しぶりです。

市川:お早うございます。お久し振りですね。月日の経つのは早いですね、今年もあと2ヶ月足らずですね。

田村:あら、まだ2ヶ月もありますよ。

市川:そうですね。失礼しました。年を取ると、とにかく日の経つのが早く感じられますからね。

田村:そうでしょうね。もう大分お年ですから。

市川:うるさい。ほっといてくれ(笑)。

田村:自分で仰ったんですよ。

市川:失礼しました。

田村:さて、今朝はどういうお話でしょうか。

市川:あ、そうか。それを話しに来たんですね。

田村:しっかりしてくださいよ。大丈夫ですか?

市川:エーッ、今朝は「神がいるなら、なぜ悪が」というお話です。実はね、このお話、10年ほど前にしたんですよ。

田村:そうでしたか?覚えていないわね。すみません。

市川:いやいや、10年も前だから当然ですよ。時効ですね(笑)

田村:でも、面白そうですね。私も時々それに似たような気持ちになることがあります。なぜこんな目に遭うのか、こんなことが起きるのかとか。

市川:これはキリスト教が発足して、世界に伝え広められ始めてから、ずーっと投げかけられてきた問いです。クリスチャンでも、例えば信仰上の理由で迫害されたり、悪がはびこっているようなとき、自分は神様を信じているのに、何でこんな目に遭うのか、神様は私なんか見捨てられたんだろうかと思うことさえあります。

田村:そう言われてみれば、私も時々そんなふうに思うことがありますわ。

市川:あなたはそういうことはないでしょう。神様が見捨てようとしても、必死に食い下がって「神様、見放しちゃいけませんよ。私、どこまでもくっ付いていきますよ、って感じでね(笑)。

田村:あら、まぁ。それはともかく、悪いことが起きたり、辛い目に遭ったりしたとき、普通はどのように考えるんでしょうね。

市川:例えば、神様は愛する者たちを訓練して、後に祝福するためとか、この世は罪深く 悪いるから、神に敵対し、それで神を信じる人々にも敵対するのであるとか、神はいずれ歴史の終わりのときにこの世を裁くから、それまで悪が満ちるまでしばらく待っているのだとか言われますね。

田村:そういう答えというか、説明はクリスチャンにはある程度理解できるでしょうけれど、クリスチャンでない方たちにはあまり説得力がありませんよね。

市川:そうです。世の中には多くの悪や悲惨がありますよね。真理子さん、どんな悪や悲惨がありますか、具体的に、思いつくままでいいですよ。

田村:そうですね。昨年の大震災、悪とは言えないかもしれないけれど、悲惨というか、非常に辛い、悲しい出来事ですよね。

市川:そうですね。大変な出来事でしたね。今なおその傷跡が癒えません。他にはどうですか。

田村:えー、政治腐敗、経済の混乱、戦争、経営破綻、失業、離婚、失恋、受験失敗、交通事故、怪我・病気、死・・・本当に世の中真っ暗、人生は辛いですよね。

市川:そうですね。それで、世の多くの人々は、神なんかいないと思う訳です。

田村:やっぱり、神は人よりは強いし、憐れみ深くもあると、普通思いますよね。ですから、世の中が矛盾だらけであったり、特に自分の人生に大きな悩み、苦しみがあれば、神なんかいないと思う訳ですね。もし神がいたらこんなことを放ってはおかないだろうと思うんですね。

市川:でも、もしそれでも神はいるとしたら、それはどんな神でしょうかね。

田村:無力な、情けない神、頼りない神ということになりますね。

市川:そうですね。でも、そんな神なら、いないほうがましです。いたって何の役にも立ちませんからね。

田村:(笑)

市川:さらに突っ込んで、もしそれでも神がいて、しかもその神が全能であるとしたら、どうでしょう。

田村:矛盾や悲惨に満ちたこの世の中に、それでも神がいて、しかも全能の神であるとしたら・・・、そりゃもう、無慈悲な神、冷酷無残な神ですよね。

市川:そういうことですね。まとめますと、この世の中、悪と悲惨に満ちている、矛盾だらけ、神など存在しない。もし存在するなら、無力な、何の役にも立たない神。もし全能の神だとしたら、無慈悲な、冷酷な神に違いない。いずれにしても、キリスト教が言うような全能で恵み深い神はいない、というのが結論です。

田村:何だか、そのほうが筋が通っているみたいだわ。あれ、こんなこと言っちゃっていいのかしら(笑)。

市川:何だか、神様、いないみたいに聞こえますね。実は、これからが問題なんです。

田村:今までは前置きですか。長い前置きですね、時間大丈夫かしら。

市川:大丈夫ですよ。時間が来れば、やめちゃって、では、また来週ということにしますから(笑)。神の存在は、究極的には誰も証明できません、科学的、数学的証明という意味では。しかし、同じように、神が存在しないということも証明できません。できることは、神が-それも、聖書が教える、全能で恵み深い神が-存在することを前提にしてこの世の中を捉え、自分の人生を送るのと、そんな神などいないという前提で世の中を見、人生を送るのとでは、どちらがこの矛盾と悲惨に満ちた世界を、苦労と悩みの多い人生を少しでも積極的に捉え、それに立ち向かうことができるかということを考えてみるということです。私たちはクリスチャンであってもなくても、この世界と自分の人生には矛盾や悲惨がある ことには変わりがありません。クリスチャンになったからすべての問題がいっぺんに解決できる訳ではありませんし、クリスチャンをやめたなら世の中、うまく生きていけるものでもありません。そうじゃないですか。

田村:そうですね。でも、クリスチャンになったら、クリスチャンでなかったときには知らなかった苦労というものがありますよね。特に日本のような社会では。

市川:確かにそうです。けれども反対に、クリスチャンになって初めて経験する喜び、祝福というものもありますね。でなければ、世界に10億人もクリスチャンがいる訳がありません。で、こういうことはどの宗教にも当てはまります。聖書の教える神を肯定しても否定しても、その神を信じても信じなくても、この世には悪があり矛盾がある、人生は辛く厳しいものであるという現実には、変わりがありません。全能で恵み深い神を否定したら、世の中の矛盾はもっとうまく、合理的に説明がつくのでしょうか。全能の神、愛の神を否定したら、私の人生はもっと良くなるのでしょうか。田村さんはどう思いますか。

田村:神を否定したほうが、人生が良くなるなんてことはないと思いますわ。むしろ、その反対のように思えますね。

市川:弱肉強食という言葉がありますよね。

田村:強いものが弱いものの肉を食べてしまう。動物の世界はそうですね。

市川:人間社会が弱肉強食の原則で動いたらどうですか。すばらしいですか。

田村:いいえ。それなら、強いものは益々強くなり、弱いものはその犠牲になります。

市川:そのとおりです。でも、それがいけない、間違っているって、言えますか。

田村:間違っているんじゃないですか、それって。人間らしく、互いに助け合って生きることが大切ですから。スポーツの世界のように、ルールの下で競争するときには、ある意味で弱肉強食になるけれど、人間の生き方の原則ではないですよね。

市川:もし、神なんかいないとしてもですか。どうせ最後は死んでおしまいなんですか ら。今、地球環境を守れなんて言ってますよね。なぜ守らなければならないんですか。自分たちの子や孫に、子孫に良い環境を残すためですか。子や孫の時代には生きていないから、自分には関係ない、自分が生きているときに環境が良けりゃ それでいい、後は野となれ山となれ、なんて思っている人がいたらどうですか。

田村:そんな人、いるんですか。

市川:いるから、今、環境が破壊されつつあるんじゃないでしょうか。とにかく、自己中心、自分の利益のためには他人を利用し、犠牲にする、こういう生き方がいけないことは誰にでも分かります。でも、それがいけないということをどのように証明しますか。神はいないんですよ。誰が罰する訳でもないんです。世の中に悪や矛盾があれば、そりゃ、究極的には偶然の結果なんです。あるいは宿命なんです。誰もこれには逆らえないんです。悲惨な境遇に生まれる、俺はなんで生まれつき頭悪いんだろう、私どうして美人に生まれなかったのかしら。そりゃ、偶然ですよ、そりゃ運命なんです、あなたの。もし、本当にそうなら、これは暗い人生ですね。世の中お先真っ暗。損な人は本当に損、不幸な人は本当に不幸です。

田村:だんだん時間が・・・

市川:あ、そうですか。では、結論を。神が存在すること、神が全能であること、神が恵み深いこと、これは証明できません。しかし、このような神を否定したら、究極的には世の中不条理、人生不可解です。もし、そんな世の中でも希望を持ち続け、耐え忍んで生きる価値があるとするなら、世の中の事柄、人生の出来事は決して偶然ではない、運命でもないと堅く信じるときだけです。私たちにとって不幸である、損であると見えるようなことでも、偶然でも運命でもなく、神様がその中にある計画を持っていらっしゃる、と信じることです。来週は、この延長線で、非常に困難な肉体の障害を持たれた方の、力強く積極的な人生をご紹介しましょう。では、また来週。

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