迷い出るということについて
赤石めぐみ
- 伊丹教会 教会員
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「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
新約聖書 ルカによる福音書 15章4~7節
皆さんは、迷子になったことがありますか。
数年前、こんなことがありました。
夫と二人で出かけるために、一緒に家を出ました。行き先は近所です。玄関先で、ちょっとした用事を思い出したので、私はそれをしていたら夫に少しだけ遅れてしまいました。夫は先に歩いて行ってしまっていました。そんなに遅れたつもりはなく、すぐに追いつけると思って、遅れついでに、きれいだな、と思った空を写真に撮ったりしました。それから私は、何も考えず、ただ夫に追いつくことだけを考えて、いつも行く道を急ぎました。夫は、その日に限って、違う道を行っていました。
それに気づかずに、いつもの道を急いだ私。もう追いついてもよさそうなのに、姿が見えない。相当遅れてしまったのかと思って、行き先に急ぎました。そこに夫はいませんでした。「寄り道をしているのかもしれない」そう考えて、思い当たるところに探しに行きました。でも見つかりません。いろいろ探し回ってから、もう一度、行き先に行ってみました。夫はそこにいました。そして、一緒にそこまで歩いて来られなかったことを残念がりました。
夫は違う道を行きながら、振り返って、私を待っていたのだそうです。私が空の写真を撮るところも見ていました。でも私の方は、いつもの道を急ぐことを考えて、目を上げて、見回して、夫の姿を探すことをしませんでした。だから、はぐれてしまいました。はぐれたとき、とっさに私は、行き先で合流できればそれでよい、と思っていましたが、夫は行き先までの道も、一緒に歩いて行きたかったようでした。
近所に行く、たったこれだけの短い時間の中で、私は夫からはぐれて、迷い出てしまいました。
また、こんなこともありました。
旅先で、しばらく歩き回ってから、夫が用を足してくる、と言って、建物の中に入っていきました。私は通りから見送って、「ここで待っているね」と言いました。でも、ちょっと寒かったので、私も少し遅れて建物の中に入りました。入り口からちょっとだけ入ったところに座るところがあったので、そこで待つことにしました。ここなら、出てくるのを見逃すことはないだろう、と思ったのです。でも、私は見逃してしまいました。歩きくたびれて、ちょっぴり、うとうとしてしまったのです。ふっと気がついて出入り口を見守りました。夫はちっとも出てきません。おかしいな、と思ったのですが、疲れていたせいもあって、そのまま座って待ち続けてしまいました。30分近くも過ぎてから、「やっぱりおかしい」と思って、私はようやく腰を上げて、外に出ました。夫はそこにいました。寒い中、じっとそこで私を待っていたのでした。
「ここで待っているね」と言ったではないか、と言われてしまいました。目と鼻の先の距離なのに、私はまた、夫からはぐれ、迷い出てしまっていました。自分が信じられませんでした。そして激しく後悔しました。言ったとおりのところで待っていればこんなことにはならなかったのに・・・。居眠りさえしなければよかったのに・・・。おかしいなと思ったときにすぐに外に出てみればよかったのに・・・。
人間は、神さまからこのように迷い出ているのかもしれません。しかも、迷い出ているのに、そのことに気づいていないのです。自分が迷い出て、そのせいで相手を見つけられないだけなのに、相手が勝手な行動をしたと思ってヤキモキしてしまったりしている・・・。本当は逆です。
神さまはすぐそばで見ていてくださっているのに、人間の方が、自分の思い込みのせいで、迷い出てしまうのです。言葉の通りにしないために、迷い出てしまうのです。
神さまは本当にいつも、私たちと共にいてくださろう、絶えず一緒に歩んでくださろうとしています。でも、人間の方では、自分の都合で、神さまをないがしろにしてしまう。神さまがいつも一緒というのは煩わしいですか?天国にさえいければ、途中の人生は神さまと離れていてもよいのでしょうか。
イエスさまは、そのような私たちを見て、「迷い出ている」と判断されて、私たちをどこまでも探しに来てくださる方です。イエスさまに見つけられて初めて、私たちは、自分が神さまから迷い出ていたことに気づくのかもしれません。そして、そのときに、もう二度と神さまからはぐれないように、迷い出てしまわないように、という決心ができるのかもしれません。それでよいのです。
このように神さまから迷い出てしまう私たちのことを、イエスさまは羊にたとえて教えてくださいました。イエスさまは、迷い出た私たちの帰りをただ待つだけでなく、探しに来てくださるお方です。そうして、見つかった時には、それはそれは喜んでくださるお方です。あとで、こどもさんびかの「ちいさいひつじが」を歌いますが、この歌を聴くと、羊が迷子になったところでは泣きそうになってしまいますし、やっと見つかって、羊飼いと一緒に帰って来られた結末を聞くと、もうイエスさまから離れちゃだめだよ、わたしも離れないようにしよう、という思いにさせられます。
人は、神さまと共に歩めているときが、一番幸せで、一番安心なのだと思います。