独り子を与える神の愛

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聖書の言葉

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章16節

金原義信によるメッセージ

今日は、神様がどれほど私たちを愛しておられるかをお話したいと思います。

今お読みした聖書の言葉には、神様が、どれほど私たちを愛しておられるかが書かれています。「その独り子をお与えになったほどに」という言葉です。

神様の愛が具体的な形で現れた、それが独り子をお与えになったということです。イエス様がこの世に来られ、十字架につけられた。私たちが罪と死から救われて、永遠の命を得るためです。それは、父なる神様が、ご自身にとって大切な独り子イエス様を、私たちにお与えになったことだというのです。

それは人間にたとえると、誰かを救うためにたった一人の大切な子を犠牲にする、失うということです。

創世記22章には、昔アブラハムが、神様に求められて息子イサクをささげるというお話があります。イサクは、アブラハムが神様からの約束に基づいて待ち望んで、ようやく妻サラとの間に生まれた大切な独り子でした。ところが神様はこの愛する独り子イサクをささげなさいと言われたのです。これはイサクの命を失うことを意味します。アブラハムにとってこれはとても厳しいことでした。悩み、苦しんだことでしょう。しかし彼は神様の言われるとおり実行しようとします。神様が命じられた場所で、いよいよイサクをささげようとしたとき、神様はそれを止めさせ、代わりにささげる雄羊をお与えになりました。そのとき神様はアブラハムにこう言われました。

「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

彼は神様のために自分のたった一人の愛する息子を失うことを決意したのです。

けれども、アブラハムがしたことと、神様が私たちのためにして下さったことが同じかというと、そこには大きな違いがあります。アブラハムはイサクを神様にささげる、委ねようとしました。神様はイサクをよみがえらせる力のあるお方です。アブラハムの悲しみや苦しみを本当に受け止めることが出来るお方です。彼はそのような神様に自分の息子を委ねることが出来たのです。

しかし父なる神様がイエス様をお与えになった相手は人間です。「神はその独り子をお与えになるほどに世を愛された」とありますが、この場合の「世」は神ないしイエス様に対立・反抗する世界ないし勢力を指しています。父なる神は愛する独り子を世にお与えになった。世は自分たちに与えられたイエス様を拒否し、苦しめ十字架につけてしまった。そういう世に、神様は独り子をお与えになったのです。ここがアブラハムと決定的に違う点です。

私たちは自分に良くしてくれる人を大切にすることは出来るけれども自分に敵対する人を愛することは難しいと思います。

しかしそれならば、自分に良くしてくれる人を私たちは本当に愛せるでしょうか。相手のためを思って関わっても相手がそれを受け止めてくれない。しかもその相手が、その人のためを思っているようには見えない別の人の言うことを聞いている。そういう時、人間の愛って悲しいと思います。真実に自分を愛しているのは誰かということを見分けることができない。また私自身、自分のためを思ってくれた人の愛を正しく受け止めてきただろうかと考えさせられます。そこに人間の愛とか信頼が壊れた世の姿を見る思いが致します。その根っこには、神の愛を受け止めることが出来ない人間の世の悲惨があります。だからイエス様を十字架につけたのです。神の愛を拒否する。その先に滅びが見えるのです。

イエス様が十字架で背負って下さったのはそのような滅びです。愛が壊れた人間の闇です。私たちの代わりにイエス様がそこへ飛び込んで、復活の命によって闇に打ち勝って下さったのです。これを信じるなら、愛に破れ、不信が渦巻く世にあっても、「私の所にイエス様が来て下さり、永遠の命を下さった」ことが分かるのです。そのために神はその独り子をお与えになったのです。「神様は愛する独り子を犠牲にして下さるほどに私を愛して下さっている。この愛は何があっても、永遠に消えることがない。確かな神の愛に、私は受け止められている」。これを信じて、私たちは永遠の命を生きることが出来るのです。どうか、イエス様を信じて永遠の命の恵みを受け取っていただきたい、そう心から願っています。

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