平和のために来られたイエス

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聖書の言葉

「平和を実現する人々は、幸いである。

その人たちは神の子と呼ばれる。」

新約聖書 マタイによる福音書 5章9節

申成日によるメッセージ

皆さんは8月15日がどんな日かご存じでしょうか。多くの方々は「それぐらいは知っている」、または、「知るところか自分にとっては忘れられない日だ」とおっしゃるかもしれません。しかし、若い人々は案外この日がどんな日なのか、よく知らないようです。

いつかテレビ番組で8月15日に、町の人々に「今日は何の日ですか」という質問をしたら、ほとんどの若い人々が何の日なのか知りませんでした。8月15日、日本では「終戦の日」です。ところが、実は、わたしの祖国・韓国では、この日を「光復節」(光を取り戻した日)として守っています。

少し興味があって、インターネットで「8月15日」のことを調べてみました。日本のYahoo!で「8月15日」を検索したところ、最初の頁に「敗戦」とか「終戦」という言葉は全く見当たりませんでした。同じく韓国のYahoo!に入って「8月15日」を検索してみました。すると、一番真っ先に出てくるのが「光復節」でした。勿論、その下にも多数の「光復節」関連の記事がありました。

8月15日は日本にとっては「敗戦の日」でありますが、韓国にとっては「光を取り戻した日」ですから、その日を覚えることに対しても差が出るはずだと思ったのですが、これだけ大きな違いがあるとは驚きでした。

わたくしが住んでいる広島の地において、8月は特別に平和を考える時であります。広島の多くの人々は8月になると平和な世界を求めて祈ることが多くあります。そういう意味で、広島は日本の中で最も平和に感心のある都市だと言えるでしょう。 8月というのは、過去の歴史を思い起こし、平和を造るために一緒に頑張りたい時であります。

さて、「平和」というのは、 聖書が教える真理、 聖書が目指す理念の一つでもあります。 だから、 「クリスチャンは平和主義者だ」と言われることも多いし、 実際、平和を造るために様々な活動しています。 ただ、 聖書が言う平和、 取り分け、 イエス・キリストが言う「平和」というのは、 我々が一般に言う「平和」の概念とは少し違いがあります。

クリスチャンは当然平和を求める平和主義者でありますが、 しかし、 その平和の概念が一般の平和とは違いますので、 クリスチャンとしての平和主義者は、 一般の平和主義者とは異なるべきであります。 でも、 我々は案外そういう区別をしないことが多くて、 「聖書が教えることは平和なのに、 なぜクリスチャンでありながら、 戦争をしたり、 戦ったりするのか。 なぜ、 クリスチャンは他の宗教と仲良くしないのか。 一体その平和主義はどこに行ってしまったのか」と言われます。

ここでわたしたちは「平和」という観点からこのことを考えたいと思います。 例えば、 「平和」という概念を「戦いのないこと、 戦争が起らないこと」だと定義してみましょう。 これは、 多分一般の人々がよく考える平和の概念でありますが、 戦いのない、 戦争のないことが平和なのかという疑問があります。

たとえば、ものすごい強い独裁政権の中では、 戦いというのはあまり見ることが出来ません。 そこには思想の自由や、 言論の自由、 表現の自由もありませんから、 言い争うこともありません。 ただ、 権力者に従うことだけがあります。 そして、 そこにおいては「戦い」というのがありませんから、 わたしたちはその国を「平和の国」と言うことができるでしょうか。

わたしたちはそのようなことを平和とは言いません。 つまり、 「戦いや、争いがなければ平和だ」という概念は間違いだということです。

そもそも、人間が平和を造ることは不可能であります。なぜならば、人間の中には罪を引き起こす罪性があるからです。それがある限り、人間が自分たちの力で完全な平和を造ることはできないでしょう。

では、 キリスト教が言う平和というのは一体どんなことであるでしょうか。 先ほど読みました聖書の言葉は、我々に「平和を求めるべきだ」と教えているように見えるけれども、 実はそうではありません。 良く読みますと「平和を実現する人は神の子と呼ばれる」と言われています。 「平和を実現する」だけで神の子と呼ばれることが出来るでしょうか。

実は、ここで言う「平和」というのは「イエス・キリストによってもたらされる神の国においての平和」なのです。キリストと出会う前の平和は皆が自由に仲良く暮すことであるならば、 キリスト者が目指している平和は、 ただ仲良く暮すというのではあく、 キリストによってもたらされた神の国において、 神と共に生きる平和なのです。

そうすると今日の言葉が分かってきます。「平和を実現する人は神の子と呼ばれる」と言っています。 平和を実現するというのは、 「神の国を実現する」ことであってそのためにはまずイエス・キリストを信じることですね。 だから、 神の子と呼ばれることになるのです。

イエス・キリストを象徴する十字架のことを考えましょう。十字架は横の棒と縦の棒に成っています。横の棒は人と人の間を結ぶ役割をして、縦の棒は神と人の関係を結ぶ役割をしています。つまり、イエス・キリストは十字架の死を通して、人と人との間を和解させて、お互いに愛し合うことを教えて下さり、また神様と人との間を和解させて下さり、罪によって神の裁きを受けるべき人間を赦して下さいました。

その意味で十字架は誠に平和の象徴だとも言えるでしょう。聖書における神様の主な教えも、隣人を愛することと、神を愛することです。この二つの愛が実現される時、神の国における真の平和を味わえることができるでしょう。だから、キリスト教の平和は不完全な人間が造り出す平和ではなく、神様から送られたイエス・キリストによる平和であります。

イエス・キリストはその平和をもたらすために来られました。あなたはその平和を味わってみませんか。あなたが教会の門を叩く時、その平和は今、始まります。

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