神を愛し、隣人を愛する

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聖書の言葉

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

新約聖書 マタイによる福音書 22章37~40節

吉田謙によるメッセージ

ある女性の信徒の方が、以前、私にこういう話をして下さいました。それはその方がある病院でボランティアの働きをしていた時に経験なさった出来事です。その方は口がきけないご老人のお世話をすることになり、そのご老人と、なんとか会話を交わせるようになりたいと願い、必死で手話の勉強をなさいました。その甲斐もあって、少しずつ会話を交わせるようにもなりました。けれども、そのご老人の笑顔を一度も見たことがありません。「ありがとう」の一言もない。彼女が帰る頃になると決まって、「あれをして欲しい」「これをして欲しい」と無理難題をふっかけてくる。「いったいどうしたらいいのだろう」「自分のやり方はどこか間違っているのだろうか」彼女は本当に悩んだそうです。

家に帰る道々、彼女は「このけだるさはいったい何だろう」と考えました。イエス様は「隣人を愛するように」「隣人に仕えるように」と教えておられる。私も一生懸命、隣人に仕えようと今まで頑張ってきた。けれども私には喜びがない。その時に、彼女はハッと気づいたそうです。「自分はあの人を本当に愛しているのだろうか。これだけのことをしたのだから喜んでもらえるだろう、そういう見返りを自分は期待していたのではないか。本当にあの人を愛しているのなら、ただ仕えるだけで心は満たされるはずではないか。こんなにけだるいのは、こんなに喜びがないのは、あの人を心から愛していない証拠ではないのか」と。

その時に彼女はイエス様のことを思い起こしたそうです。イエス様は、私がまだイエス様のことを知らずに敵対して歩んでいる時に、あるがままで受け入れ、愛して下さった。そういう罪にまみれた私の救いのために、全てを投げ捨てて、十字架の上で死んで下さった。この十字架のイエス様のお姿を思い起こし、このイエス様の愛に促されて、彼女は「この方を本気で愛そう」と決心した、と言います。「この方が喜んでくれなくてもいい。心から仕えよう。この方がもっといて欲しいと願うならそうしよう」そう決心したそうです。

すると不思議なことに、そう決心すると、あのわがままだったご老人が急に変わった、と言います。笑顔を見せてくれるようになり、彼女が何にも言わないのに、「もう帰る時間でしょ」と、この方の方から気づかってくれるようになった、と言うのです。これが隣人を愛するということでしょう。自分の評価を得ようとして、あるいは見返りを期待して隣人を愛そうとしても駄目です。それではその人を本当に愛しているとは言えません。愛を受け取る側の人間には、それが本物の愛かどうかはちゃんと分かるのです。そうではなくて、神様の愛に促されて、本気でその人を愛するのです。その時に、あのわがままだったご老人が変わりました。これは彼女の愛が本物であることを、このご老人が認めたからこそ起こったことでしょう。

福音書記者ヨハネは、彼の手紙の中でこう言っています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」ヨハネの手紙一4章7節の御言葉です。

愛は神から出るものである、と言われています。「神様を抜きにしても、隣人を愛することはできる」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、人間の感情ほど、うつろいやすく、また身勝手なものはありません。今、熱烈に愛した人を、次の瞬間には殺してやりたいと思うほどに憎むことがあります。神様を愛し、イエス様を愛して、変わることのない真実の愛をいただくことがなければ、私たちは本当の意味で隣人を愛することなど出来ないのです。

そこで私たちは、イエス様が今日の箇所で二つのことを共に大切だと言われながら、しかし第一の掟、第二の掟と、順位をつけておられることにも注意を払う必要があります。まず「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」ということから始めなければなりません。

神様の愛が私たちの内側で満ち溢れていて、それが隣人愛として私たちの内側から外側へと流れ出ていく。そのような神様の愛をもって、隣人を愛するのでなければ、私たちの愛はやがて自分の罪のゆえに破綻していくことでしょう。身勝手で迷惑な愛もありますし、中途半端で無責任な愛もあります。また身勝手さは自分だけではなくて、相手にもあります。こちらが愛することに真面目で真剣であっても、相手のわがままや頑なさに振り回されることもある。それでも、なお忍耐強く、真実の愛で愛し続けるためには、まず私たち自身が、神様から溢れるほどの愛を受け取らなければならないのです。

もしも愛することに疲れを覚えたり、情熱が薄れてきたと感じたならば、私たちも、先程、紹介した方のように、もう一度、あのイエス・キリストの十字架の恵みを思い起こせばよいのです。あの壮絶なイエス・キリストの十字架を思い起こせば、神様の愛がいかに大きなものであったかがよーく分かると思います。何故、神様はあんな犠牲を払ってまで私たちを救おうとなさったのでしょうか。それは、神様にとって私たちの命は、御子を犠牲にするほどまでに価高く、尊く、掛け替えのないものだったからであります。

まず私たち自身が、神様の愛をしっかりと受けとめたいと思います。そして、今度はその神様の愛を味わった者として、神様の心を自分の心とし、神様の眼差しを自分の眼差しとして、それぞれの仕方で本気で隣人を愛していきたいと思います。

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