罪を赦す者はだれか

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聖書の言葉

イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章1~11節

大野桂一によるメッセージ

8章4節「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。」

これは、エルサレム神殿の境内での出来事でした。イエスが民衆に教えておられると、そこにユダヤ教の指導者達が、姦淫の現場で捕えられた女性を連れて来て、真ん中に立たせ、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(4節~5節)とイエスに尋ねたのです。

当時のユダヤの律法では、姦淫は重い罪で死刑に値し、男も女も石で打ち殺さなければなりませんでした(申命記22章21節)。しかし、姦淫の罪は、二人の証人がその現場を見ないと、訴えることは出来なかったようです。

姦淫の現場を押さえられたのなら、男女が居る筈ですが、ここでは男の姿はなく、女性だけが連れて来られており、「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」(6節)とあるように、何か陰謀の臭いのする話です。

ユダヤ教の指導者たちの狙いは、この女性の裁きなど、どうでもよく、イエスを亡き者にすることが、狙いでありました。

罪人とレッテルを貼られた人々を、イエスが愛し、救いへと熱心に招かれるので、彼らはユダヤ教の教えに反すると、イエスをおとしめようとしたのです。

もし、イエスが「石で打て」と言われると、罪人も赦されると教えておられる、イエスの言葉と矛盾し、イエスの評判が落ちてしまいます。

当時のユダヤは、ローマ帝国に占領されていて、ユダヤの最高議会にも死刑の権利が許されていませんでした。死刑を命じることは、ローマ帝国に反逆する犯罪人になる可能性もありました。一方、イエスが「この女を許せ」と言われると、それはユダヤの律法に反する罪となります。イエスがどちらに答えても、イエスをおとしめる事が出来る、巧妙な狡猾な罠でありました。

この問いに対して、イエスは、ユダヤ教の指導者の質問を無視して、黙って地面に何か書き始められたのです。

イエスのその沈黙は、彼らの考えていた事とは違う、想定外のことでした。

そこで彼らは、しつこくイエスに問い続けたのです。そうするとイエスは身を起こし、「『あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人またひとりと、たち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(7節~9節)のです。

今、ラジオをお聞きのあなたが、この場所におられたら、どうなさるでしょうか。勿論、あなたは、法律を犯された事はないでしょう。自分は罪人ではないと、石を投げられるでしょうか。

聖書で言う罪とは、法律を犯す罪だけが罪ではないのです。罪とは「的外れ」、神の御心に反する「的外れ」なことが、罪と言われているのです

全く聖く正しい神に対して、神の御心に反する罪を一度も犯したこと無い方、良心の呵責を感じたことが一度も無い方が、いらっしゃるでしょうか。

イエスは「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。そうすると、そこにいた人々は、年長者から始まって、一人ひとりと立ち去っていき、誰も居なくなりました。

10節~11節「イエスは身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは罪を犯してはならない。」

その場には、もうだれも石で打つ者がいなくなりました。

この女性は、ここで救われたのでしょうか。確かに女性を裁き、罰する者は一人もいなくなったのです。

しかし、女性の姦淫の罪は、残されたままです。だれも女性を罰する者がいないと言うことは、だれも女性の罪を許し、救う者がいないと言うことです。女性の罪は、解決されず残ったままです。

皆様は、ご自分の罪の責任を、どのようにして、解決されるのでしょうか。

その女性に、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのです。

何故、イエスお一人が、このように「罪に定めない」と言うことが出来るのでしょうか。

イエスは、ご自分が、女性の罪を身代わりに引き受け、罪の罰として、十字架に架かり、肉を裂き血を流し、女性に代わって、罪を処分する覚悟をされておられたからこそ、この言葉を言うことが出来たのです。

女性は、やがてイエスが十字架に架かり、死なれたことを知り、その十字架の意味を悟り、主イエスを信じ、罪許された新しい希望ある人生を送ったことでしょう。

私たち総ての者は、生涯が終わる時、神の御前に自分一人で、神に向き合うことになるのです。罪ある者は、神と共にあることは出来ません。

そのために神がなさった御業、ヨハネによる福音書3章16節、17節を読んで終わります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

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