いつも喜んでいなさい

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聖書の言葉

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~18節

岩崎謙によるメッセージ

今日のお話の題は、16節そのものの「いつも喜んでいなさい」です。先日、この御言葉を書いた説教題を、教会の前に出していました。すると、小学生低学年の女の子がお母さんと一緒に通りかかり、その子は、立ち止まって「『いつも喜んでいなさい』だって」と母親に話しかけていました。

この「だって」という言い方が、印象的でした。「いつも喜んでいることはできないのに、それなのに、『いつも喜んでいなさい』だって」という意味か、もっと素直に、「『いつも喜んでいなさい』だって。……わたしもいつも喜んでいたいなぁ」と続くのでしょうか。どちらかは分かりませんが、この御言葉は、幼い子どもにも何かを届けていました。

多くのキリスト者が、この御言葉を愛唱聖句としています。その方々を思い起こすとき、笑っておられるお顔が脳裏に浮かびます。ですので、わたしは、いつも喜んでいる方が、「いつも喜んでいなさい」を愛唱聖句にするんだなぁと思っていました。

しかし、心配事が重なっているときに、この題で説教しなくてはいけなくなったとき、自分が喜んでいないときに、どのようにして「いつも喜びなさい」と説教できるのだろうかと戸惑いました。その時、この御言葉は、かなり、重たいものであることに気付きました。

愛唱聖句とは、自分で選ぶもので、肌身離さず、握りしめているようなものです。もし、「苦難の時に私を呼べ」というような愛唱聖句であったなら、苦難の時に、即、役立ちます。「いつも喜んでいなさい」を愛唱聖句にしておられる方は、苦難や悲しみの中で、この御言葉を思い起こし、「いつも喜ぼう」と自分を鼓舞しておられるわけです。笑顔を絶やさない明るさの背後に、どんなことがあっても、悲しみや不安に心を占領させてはならないという強さが宿っていたことを知りました。

「いつも喜んでいなさい」の「いつも」は、強烈です。喜べるときに喜びなさい、楽しいことがあったら喜びなさい、ではありません。「いつも」です。心配事を抱えても、悲しみの中におかれていても、仮に、死と向き合うなかに閉ざされても、「いつも喜びなさい」です。ある意味で、この御言葉は、過酷な要求を突き付けています。

しかし、ここには、神様の大きな約束があります。「わたしが、どんななかにあっても喜ばせてあげるから、いつも喜びなさい」という神様からの申し出です。ですから、この御言葉に依り頼む人は、「神様、あなたは『いつも喜んでいなさい』と命じられました。どうか、ご命令の通り、いつも喜ばせてください」と祈り求めることになります。

この御言葉に生きた二人の方をご紹介いたします。一人は、Mさんです。もう一人は、語るのは少し恥ずかしいのですが、今は亡き私の父です。Mさんは、御自分が不治の癌であるという事実を知るや否や、未信者のご主人を伴って、わたしのところにお出でくださり、葬儀説教を依頼されました。お引き受けすることを伝えますと、「お葬式のことで家族が悩むことがなくなったから、後は安心して治療と養生にあたれます」と嬉しそうにお語りくださいました。

Mさんは胆管癌でした。そして、たまたま、わたしの父も胆管癌でした。Mさんは、父の手記を丁寧に読んでおられました。Mさんとの出会いの中で、24年前に亡くなった父のことを思い出しました。

父は、病気一つしない元気な牧師でした。人生で久しぶりに病院に行ったとき、余命4ヶ月の末期癌と診断されました。父にそのことを告げますと、「分かった」と言い、それから父のお茶目な日々が始まりました。体調が少しいいと、好きな庭仕事をして、家族を心配させました。父は、自分の病気を、「鯉が池でポチャン、ポチャンど飛び跳ねて遊んでいたら、高く遠くに飛びすぎて、陸に落ちちゃった」と語っていました。父は、元から太っていてお腹が大きかったのですが、腹水でさらに大きくなってきました。そのお腹を太鼓に見たてて、軽く叩きながら、讃美歌をよく歌っていました。職業人としての牧師である父を見ると、やり残したことが多く、無念の死であったかもしれません。しかし、思い通りに仕事の成果が上がらなくても、思わぬ末期癌になっても、ユーモアをもって喜びながら生きて死ぬことを、父から学びました。

「いつも喜んでいなさい」と語られている喜びの内実は、どんな中にあっても讃美歌を歌い、祈り、いつも神を礼拝する、神との交わりに生きる喜びです。そして、聖書は、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と語っています。いつも喜んでいるとは、わたしたちの願望であるよりもむしろ、キリスト・イエスにおいて、神がわたしたちに望んでおられることです。

ラジオをお聞きの皆様、どうか、イエス・キリストと出会ってください。そして、自分の人生が神の願いに則して整えられていていく喜びを体験してください。

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