喜びは尽きず

キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

新約聖書 ヨハネによる福音書 16章20~22節

中山仰によるメッセージ

英語でサンキューと言われたら、ユー・アー・ウエルカムと答えるように教えられました。ある人のアメリカ短期留学の本を読んでいましたら、ユー・アー・ウエルカムではなくて、マイ・プレジュアーという言い方もあることを知りました。ユー・アー・ウエルカムはいわば構いませんよという意味ですが、マイ・プレジュアーは「わたしの喜び」というのですから格段に違うのではないかと思わされました。「マイ・プレジュアー」。良い響きですね。決してお礼を言ってもらいたくてしたのでも何でもない、ただ私のした行為が私自身の喜びとして受け止められるというのですから、驚きに近いものです。

今日のこの箇所は「喜び」について教えてくれます。19節には、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなる」という何か悲しい別離の言葉が載せられています。これはイエス・キリストが間もなく捕らえられ、十字架につけられて、弟子たちと離ればなれになるということを予告されている言葉です。ただ十字架にかけられるだけではありません。弟子のユダの裏切りとやはり弟子のペトロが土壇場で寝返って、主を知らないと否認した厳しい苦しみをも味わっておられます。

ところがイエスさまは続けて、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」という逆転劇があることを明示しています。このコントラストは20節の言葉で、「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と表されています。

それは出産の苦しみと喜びにたとえられる、と続けられます。出産は命がけの行為です。ある友だちが、「僕は生まれるとき、お父さんに殺されそうになりました」と言ったのでどきっとしたことがありました。彼が生み出されるときに母親は難産で、医者から「母胎を取りますかお腹のお子さんを取りますか」と尋ねられました。そのようなぎりぎりの選択の時に父親は普通、母胎の方、奥さんの方を選ばざるを得ません。子どもはまた産まれることもあるからです。彼の場合は、無事に生まれ、母子共に健康で、悲しみは喜びに変えられたのでした。

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」とあります。「泣いて悲嘆に暮れる」とは、イスラエルが旧約の時代にバビロンへ捕囚として連行される時の王様の哀れさを歌った歌です。国民の命を守らなければならないのに、できなかったのです。ここでは、地上に残される弟子たちの激しい慟哭が重なって伝わって来ます。ところが、この苦難が喜びに逆転するというのです。

悲しみは喜びに変わるのですが、詩編という賛美の歌が集められている所では、「嘆きを踊りに変え」(30:12)るという表現をしています。躍動するような、踊り出すような喜びが主イエスの言葉にあります。そうです。十字架につけられた主が、復活して生きて弟子たちの前に顕れたからでなくてなんでしょうか。それ以外に爆発する喜びは考えられません。

孫引きですみません。35年以上も前の話です。スペインである夫婦が自動車で旅行に出かけました。とても疲れたので、崖の上の景色の良いところで運転手と夫は休息を取りに外へ出ます。すると、するすると車が動き出したではありませんか。サイド・ブレーキをかけ忘れたのでした。そのまま進むと車は、崖から落ちてしまいます。車の中で休憩していた妻のマリアが大変なことになります。もう車を止めることも、ドアを開けて妻を引き出すことも出来ない瀬戸際に差しかかったとき、夫のミカエルは車の前に自分の体を投げ出して車を止めました。ミカエルはその見返りに、あばら骨と背骨を損傷し、それが元で数日後に死亡してしまいました。

妻のマリアは夫の自分に対する愛を感謝すると同時に、夫は自分のために亡くなったという呵責の念を持ち続けました。その思いを晴らそうと、夫のためにマドリッドの墓地にお金に糸目をつけないで立派なお墓を建てることにしました。一方、イエズス会日本管区は、山口県の防府市に教会を建設する計画を立てており、スペインにも協力を求めていました。これを伝え聞いたマリアはお墓のことを考え直し、夫が喜ぶのは墓の大きさ立派さではなく、新しい教会のために献金を献げることだろうと考えて日本にお金を送ることにしました。こうして防府教会が建立されました。聖堂の入口の壁には「マリア・ムギロの亡くなった夫ミカエルの記念として」と記されています。さらに献堂式が近づき、イエズス会からマリアに献堂式の招待状と航空券が送られて来ました。マリアはそれを断り、航空券を払い戻して、そのお金でオルガンを寄贈しました。

夫を亡くした悲しみや苦しみはすっかり影を潜め、喜びと充実に満ちた晩年を過ごしました。これは多額の献金によって、満足するという単純なものではないでしょう。キリスト・イエスへ献げることによって、キリストがマリアの悲しみを担ってくださったからでなくて何でしょうか。イエス・キリストこそ私の喜びです。

関連する番組