生ける主に委ねよ

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聖書の言葉

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

新約聖書 マタイによる福音書 6章25~34節

中山仰によるメッセージ

「思い煩い」は必要でないわけではありません。使徒パウロは諸教会のためにいつも思い煩っていました。新約聖書のパウロの書簡に書かれています。私たちの「思い煩い」はほとんどの場合「取り越し苦労」という形が多い、ということが問題なのですね。「労苦」について興味あることに、新改訳聖書は「労苦はその日その日に、十分あります」と訳しています。労苦は確かに毎日つきまといます。だからといって「明日のこと」「もっと遠い将来のこと」まで心配してどうなるのですか。たいていの場合徒労に終わるか、第一予測してもほとんど手を出せませんし、まして状況を変えることなどできません。ですから将来計画を立てるなということではありません。予測も対処もできない事柄に対して、「思い悩むな」。過度の心配をしても始まりません。

借金にしてもそうです。「何千万円」も大金ですが、そのくらいなら人間必死に働いて返せないこともないですが、今日の社会状況の中で、真面目に働いていても、円安で何千億円などという損失が出てしまった場合には、どう手をつけてよいか・・・。何もできない状態でしょう。これは経済だけでなく、信仰面においても言えます。日本社会の中で、信仰者となるということは、家族で一人だけとか、学校や職場で一人だけとか一軒だけ、などということはけっこうあるでしょう。それでも心豊かに生きることができるのは、「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。・・・何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とすべてを与えて下さる主イエスの力ある言葉によって生かされているからでしょう。

私たちの創造者でもある主イエスは、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」とも断言しておられます。私たちはこの主の言葉によって生きています。

その主イエスの約束があるのに、思い悩むならば、それは主の言葉より先に行ってしまっていると思ってよいのです。下手の横好きで、俳句を4、5年学んでいます。上達しない理由があります。それは花や鳥をよく観察しないで、頭で詠んでしまっているからです。「空の鳥をよく見なさい」と言われたら、暫く鳥に思いを馳せるか、できたら飛んでいる鳥をじっと観察してみなければ詠めません。鳥が空を飛ぶことだけでも不思議です。野の花の生長の過程を観察しても感動します。自然の中には私たちを癒し力づける要素が満ちています。それは花や鳥を造られた神の創造のダイナミックさと美しい調和を教えられるからでしょう。

まさに聖書の言葉は生きている神の言葉ですから、そのまま味わい尽くせばよいのです。またそれが力になります。「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」当時最高の智恵を持っていたと言われる彼でさえ、花の豪華さにはかなわなかったのです。それは彼よりも花や鳥が優秀であったというのではありません。ここでは、それらを創造された神の智恵と力のすばらしさをほめたたえています。

徹底的に「委ね」て、生きているのは幼子だと思います。幼子がすやすや安心して眠っている姿ほど心癒されるものありません。赤ちゃんを見ると、なぜ心豊かになるのでしょうか。それは完全に委ねきっているからだと思います。周りも守ってあげなければと思う気持ちになりますよね。それでしたら、父なる神がどうして私たちを守ってくださらないはずはあるでしょうか。花や鳥でさえお心をかけられます。まして私たち神に似せて造ってくださった人の子たちを放っておかれるはずはありません。

今必要なものを与えてくださる主なる神の御支配に、心から委ねて生きましょう。そこに信仰が生まれます。委ね従う時に、喜びが生まれます。今日という日に問題を起こしたならば、明日へ持ち越さないことです。罪に苦しむならば今主に赦しを乞うことです。神に和解する時に、すべての問題や煩いは喜びに変えられます。

讃美歌第二編アメイジング・グレースの二節の歌詞に、「恐れを信仰に変えたまいし、わが主の御恵み、げに尊し」という歌詞があります。憂いや煩いは私たちの救い主イエス・キリストよって取り払われます。「恐れは信仰」に変えられるのです。信仰者はその恵みを覚え、主を賛美し続けます。

その恵みと喜びを胸に、最後に拙い句を一つ詠みます。

「黄身二つの卵をむきて復活節」。

主イエス・キリストが、最大の煩いである受難と十字架から三日目によみがえられた喜びは、はかりしれません。その主イエスが言われます。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

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