姦淫の女

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聖書の言葉

イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章10~11節

中山仰によるメッセージ

みなさんはミヒャエル・エンデという人をご存じですか。『モモ』とか『はてしない物語』という児童文学で有名です。エンデの短編の中に、『鏡の中の鏡─迷宮』という30話からなる短編を最近読んでいて教えられています。その一編をご紹介しましょう。

「灰色に広がる空の平面上をスケーターが、頭を下に、ウールのマフラーをなびかせて、滑っていく。そんなことができるのも、空が凍っているからだ。ポタポタ鼻をたらし、ポカンと口をあけて、群衆が地上からながめている。空のスケーターを指さし、ときおり、特別にむずかしいもの(もちろん逆さまの)ジャンプが成功するたびに、拍手をおくっている。スケーターは大きな弧や輪をえがく。そのシュプールが空に刻みつけられるまで、何度も同じフィギュアを繰りかえしている。いまや、それが文字であることは明らかだ。もしかすると緊急のメッセージなのかもしれない。それから彼は滑り去り、水平線のかなたに姿を消した。群衆はじっと空を見あげていたが、だれひとりとしてアルファベットを知る者はいない。だれひとりとして文字を解読できる者はいない。ゆっくりとシュプールは消えてゆき、空はふたたび、灰色にひろがる平面にすぎなくなった。人びとは家に帰り、まもなくこの出来事をすっかり忘れてしまった。結局、だれにだって自分なりの心配があるのだし、そのうえ、あのメッセージがほんとうにきわめて重要なものだったのかどうか、わからないのだから。」(岩波書店発行丘沢静也訳)

私はこのメッセージは何であったのかということに興味を持ちました。皆さんも興味ありませんか。ちょうど私は新約聖書のヨハネによる福音書の8章の初めの「姦通の女」の記事を読んでいたからです。イエスを試して訴える口実を得るために、敵対する人びとがわざわざ「姦通」を行っている女を現行犯で捕まえてきました。法律によると「こういうふしだらなことをしている女は石で打ち殺さねばならないのだが、あなたはどうお考えになりますか。」と尋ねています。法律どおり「石打にする」が正解であるかもしれませんが、そうなるとイエスの評判はがた落ちになりますし、かといって「解放してあげなさい」とでもいうなら、法律に違反したことを言ったと足をすくわれることになります。

イエスさまは質問者たちの悪意を見抜いていましたからはじめから、立ち会わないようにかがみこんで、指で地面に何か書いていました。(ヨハネ8:7-11) しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

敵対者たちの質問に対して、法律どおり石で「打ち殺しなさい」でも「助けてあげなさい」でも、どちらを答えたとしても彼らの思うつぼです。ですから「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という方法を提示されたのです。こにイエスという方のなみなみならない知恵があらわれています。確かに「姦通」とか「姦淫」は罪に違いありません。しかし主イエスは、どんな罪を犯しても、本人が悔い改めるなら必ず赦(ゆる)してくださいます。これが聖書の約束であり、イエス・キリストの一貫した態度です。それはいい加減な態度ではありません。御自分の命をもって、悔い改める人びとのための罪の身代わりとして十字架に架かってくださったからです。私たちにも「もう罪を犯してはならない」と愛をもって迫ってくださいます。

ところで、この時イエス様が地面に何を書いているか想像をたくましくしてみませんか。いろいろな人が推測しています。ある人は「罪」という字を書いていたのではないかと想像します。この時もイエスさまに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われましたが、誰一人として投げる人がないほど、私たちは例外なく罪に汚れています。イエスさまはそんな人間の罪を悲しまれていたのかなと思います。そしていよいよ十字架へ向かわなければならいことを真剣に受け止め始められたのでしょう。

さて、話をもう一度ミャヒャエル・エンデに戻します。天上のスケート・リンクに描かれた字はいったいなんだったのでしょうか。こちらも誰も分からなかったのですから、推測しなければなりません。それとももうみなさんには、答えが分かっているからいいのでしょうか。リンクに描かれたメッセージについて、私は「愛」ではないかと思っています。

天において描かれていることは、まさに愛、私たちの罪を赦(ゆる)す愛しかないと思います。父なる神の愛を観客である地上の私たちの誰も読むことができなくなっています。天の父の愛を受け止めることができないならば、そのメッセージが公に示されても読むことはできません。立ち去って行くほかないのです。

私たちには逆さまに見えても、つまり信じられないような十字架によるイエス・キリストの赦(ゆる)しこそが神の愛だからです。

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