信仰直言「冠婚葬祭②」

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聖書の言葉

特定の引用箇所はありません

旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:おはようございます。田村真理子です。今週も、市川康則牧師の「信仰直言コーナー」をお送りいたします。市川先生、おはようございます。先週に続いて、今週も宜しくお願いします。

市川:おはようございます。宜しくお願いします。

田村:今朝も冠婚葬祭のお話ですね。

市川:そうです。

田村:結婚式とかお葬式とかいう、あの冠婚葬祭ですね。

市川:はい、そうです。

田村:冠婚葬祭はキリスト教的に言うなら、神様の与えてくださる命の継承・発展、それも個人個人だけではなく、家庭や社会という共同体の中での命の継承・発展ということでしたね。

市川:はい。

田村:今日は少し具体的なことをお話しくださるということでしたね。

市川:はい。時々ご質問をいただきますが、その中で多いのは、キリスト教式でないお葬式に出席したときにどのように振舞えばいいかということです。

田村:亡くなられた方がクリスチャンでない、その方のご家族・ご親戚もクリスチャンでない、参列する職場の上司や同僚もクリスチャンでない。こういう場合のお葬式とか法事などに出ると、自分はクリスチャンだからと言って、自分の流儀を通すことは難しいですね。

市川:そうですね。もし、そんなことをしたら縁を切られるとか、少なくとも人間関係がギクシャクするでしょうね。

田村:こんなご意見もあります。教会で信者の葬式をするときはキリスト教式で行ない、クリスチャンでない多くの参列者にもそれに合わせてもらっているんだから、キリスト教式でない葬式に出たときは、相手の流儀に合わせるべきではないかというご意見です。

市川:はい。私もよく耳にしますし、目にもします。

田村:どう考えたら、どのように振舞ったらいいのでしょうか。

市川:先ず、考え方の基本を申し上げますが、先週申しましたように、葬式の中心的な目的は、命の創造者・支配者である神を礼拝することですから、それに反することはしてはならないということです。たとえば焼香があります。これは、ドライアイスなどがない時代、香を焚いて遺体の死臭を和らげたのが起こりであるという節もありますが、現在では一般に、心を清めて葬儀に臨むための礼儀作法と見られています。あるいは、さらに慰霊―死者の霊を慰める―の意味もあるかもしれません。しかし、この意味での焼香は聖書の教えと一致しません。清い心で臨むということなら、大事なことは心構えであって、形式上の焼香ではありません。なぜなら、これをしないと心が清まらない、あるいは清まったと感じない、これをしたら心が清まったと感じられる―キリスト教信者にはこういうことはありません。心が清められているかどうかは、葬儀の意味・目的を聖書からよく理解し、神様によって心が支配されているかどうかによります。

田村:焼香以外に問題となりそうなことは何でしょうか。

市川:例えば、遺影―亡くなった方の写真ですねーに向かって拝礼する、手を合わせ、頭を下げることも聖書の教えと一致しません。人と出会ったとき、あるいは人の集まりの中で、挨拶の意味で頭を下げるということはあります。それは、ちょうど西洋人が握手するのと同じように、日本人の間での文化的習慣ですから、問題はありません。しかし、死者に対してそうする場合、その死者は決して一緒に生きている普通の人ではありません。先祖となるべき特別の存在、粗末にすれば崇りを与えかねない特別の存在です。焼香と同じように、合唱・拝礼は宗教行為です。

田村:しかし、葬儀に出て一番問題になるのはまさにこれらの儀式ですね。

市川:そうですね。

田村:どうすればいいんでしょう。

市川:実際上のこととして最も大事なことは、普段の人間関係です。さらに、普段の仕事ぶりです。上手な言い方ではありませんが、無理を聞いてもらえるような人間関係・仕事ぶりですね。

田村:難しいですね。

市川:はい。私の母は父より先に亡くなりましたので、父は当然、他の宗教のやり方で葬儀を出しました。また、叔父や叔母が亡くなったときも、私の従兄弟が喪主を務め、他の宗教のやり方で葬式を出しました。そのいずれの場合も、私は焼香しませんでしたし、遺体や遺影に合唱や拝礼をしませんでした。これらの場合、私は外部からの参列者ではなく、最も血筋の濃い者の一人ですから、一番前に座りました。焼香はその順番に執り行いますが、私は隣の人に、焼香しないことを告げて、その人に行ってもらいました。私は自分がクリスチャンであることは早くから知らせていました。また、葬儀当日あるいは前後にも、裏方の働きはできるだけしました―車での送迎、物の運搬、買出し、掃除、後片付けなど。

田村:普段から良き証を立てるということが大事ですね。

市川:そうですね。難しいことではありますが。亡くなる前にお見舞いに行って、その方の家族にその方を大事に思っている姿勢を見せることも大事ですね。勿論、決してポーズではありません。普段の良き交わりですね。

田村:原則的なことは分かりますが、でも、やっぱりその場に居合わせたら、なかなかそうできないのではないでしょうか。そして、立場上葬式に出ない訳にいかないということもあるのではないでしょうか。

市川:そうですね。小手先のことを申しますと、参列する場所が決められていたら仕方がありませんが、そうでなければ、一番後ろ、遠くの場所にいることです。また、退場の際、ご遺族にはきちんと丁重に挨拶しなければなりません。

田村:他に注意すべきことはあるでしょうか。

市川:お葬式に行くと―教会のお葬式ですが―よく看板に「告別式」と書いてあります。

田村:よく見かけますね。

市川:あれも聖書的にはよくありません。

田村:そうですか。

市川:これには二つの大きな問題点があります。一つは、単純に言葉遣いの誤りです。

田村:と、言いますと。

市川:告別とは別れを告げることですが、誰が誰の別れを誰に向かって告げるのでしょうか。例えば、卒業式とか離任式とか送別会などで、去って行く人が残っている人たちに別れを告げる―私はあなた方と別れます―、あるいは反対に、残っている人たちが去って行く人に別れを告げる―私たちはあなたを送り出します―これが告別の意味です。もし死んだ人が喋れるなら、私はあなたたちと別れましたと言うところでしょう。あるいは、残っている人たちが死者に、あなたは死にましたということでしょう。しかし、死者は喋りませんし、また、残った人が死者にそんなことをいうことは無意味です。ですから、参列者に故人が死んだことを告げるのなら、告別ではなく、告知、宣言、証言などの言葉がふさわしい訳です。もう一つの問題は、今言ったことですが、他の宗教で告別というのは、死者にこの世からあの世に渡って行かせることを意味します。先週も少し申しましたが、よく「引導を渡す」などと言いますね。

田村:はい。

市川:「引導」は「引く(引っ張る)」と「導く」と書きます。元来は、修行して悟りを開いた先人が、その道に歩もうとしている人を、悟りの境地に到達できるように教え導くことを意味しました。後に葬儀と結び付き、僧侶が死者の霊に向かって迷わずにあの世に行くように、つまり成仏するように告げ、導くこと―これが告別の今使われている基本的な意味です。このような意味では、キリスト教の葬儀では「告別」は使えません。死は神が決定されたことで、生きている人が死者に向かって死を宣告するなどということではありません。

田村:他にもあるでしょうか。

市川:時々葉書をいただきますが「喪中につき、年末年始のご挨拶を控えさせていただきます」と書いてあるものがあります。

田村:よくもらいますね。

市川:これも私の考えですが、クリスチャンはこういうふうには書かないほうがいいと思います。これは死者を出した家は汚れているので、一定期間、喪に服さなければならない、もしこの期間中に人と接触すれば、その人は汚れるという考え方です。医療が発達せず、衛生事情の悪い時代には、確かに遺体に触れると、また、それに触れた人に触れると、病が感染するということはあり得ました。これに、死に対する畏れや忌み嫌う感覚が結び付きますと、いっそう死んだ人の近親者が遠ざけられます。この名残が今もある訳です。クリスチャンでない方々が「喪中につき・・・」という葉書を出されるのはわかりますが、クリスチャンがこういう葉書を出すのは、キリストにより罪の赦しと死の克服、永遠の命の希望と喜びという点から、不適切と考えます。もし、このような葉書を出さなければ、友人や職場の上司・同僚から、クリスチャンは非常識な奴だという非難が出て来るかもしれません。これも、信仰の弱さとして、クリスチャンでない人たちにこのような挨拶をしなければならないこともあるかもしれませんが、キリスト教信仰のある人々にはこういう挨拶は不必要、不適切ですね。死者が出ても、何も汚れている訳ではありませんし、その穢れが伝染するなどということは、精神的なレベルではあり得ません。遺体に触って病原菌がうつり、それが他の人にうつるということはあり得ることです。しかし、だからといって、喪に服するのではありません。もう大分前ですが、私の父と家内の父が同じ年に亡くなりましたが、その年、いつものように、クリスチャンにもクリスチャンでない方にも、クリスマス・カードを出し、年賀状も出しました。そこに両方の父が死んだことも書きました。

田村:有り難うございました。ラジオをお聴きのあなたは今回のお話し如何でしたか。

市川:あくまでもご参考までに、ということです。

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