信仰直言「冠婚葬祭①」

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聖書の言葉

特定の引用箇所はありません

旧約聖書 創世記

市川康則によるメッセージ

田村:今月は半年ぶりに、市川康則牧師の「信仰直言コーナー」をお送りいたします。市川先生、おはようございます。お久しぶりです。

市川:おはようございます。お久しぶりです。

田村:今回はどんなお話しでしょうか。

市川:はい、「冠婚葬祭」のお話しです。

田村:冠婚葬祭って、結婚式とかお葬式とか、あの冠婚葬祭ですか。

市川:はい、あの冠婚葬祭です。それ以外に冠婚葬祭はありません。レンコンお惣菜ではありません(笑)。

田村:何、仰ってるんですしか。朝からボケたりして。

市川:失礼しました。

田村:このお話しをなさるのには、何か背景というか、理由があるのですか。

市川:家族で、職場で自分だけがクリスチャンであるという方は少なくありません。そういう精神的環境の中で自分の信仰を堅く守りながら、仕事と人間関係を上手くやっていくのは決して楽ではありません。

田村:確かにそうですね。何かいい方法というか、知恵がないものでしょうか。

市川:はい。今朝は、この問題を考えるときの基本的な視点、あるいは持つべき関心、目の付け所をお話しします。来週は幾らか具体的な個別的な問題を取り上げますが、今日は基本的な事柄だけを申し上げます。

田村:宜しくお願いします。

市川:「冠婚葬祭」とは大きく言えば「命の循環・継承」と言えるでしょう。世の中の一般的な感覚からも聖書の立場からも、表現としては同じように言えると思います。

田村:なるほど。生まれてから死ぬまで命を受け継ぎ、それをバトン・パスのように繋いで行く、伝えて行くということですね。

市川:そうです。冠婚葬祭の「冠」は「カンムリ」という字ですが、昔「元服」という儀式がありました。子供から大人への仲間入りをしたことを祝う儀式です。時代や地方によって異なりますが、11‐17歳の間に行なわれ、髪型を変え、頭に冠を戴き、幼名(子供のときの名前)から成人名へ改名します。元服の前には、例えば七五三というのがあります。男児3歳・5歳、女児3歳・7歳のときに神社で祈願などをしてもらいます。その前には、生後30日ぐらいに宮参りをします(産土[うぶすな]参りと言われます)。生まれること自体が命の継承ですが、乳幼児から少年少女へ、そして、大人へと成長して行きますが、これは正に命の存続・発展ですね。

田村:確かにそう言えますね。あまり考えたことなかったけど。

市川:「冠婚葬祭」の「婚」は婚礼(結婚式)ですね。これは、家庭形成の初めですが、その家庭に子供が生まれ、さらに、親から子へ子から孫へと子孫が繁栄することに通じます。

田村:正に命の継承・発展ですね。

市川:そうですね。冠婚葬祭」の「葬」は葬儀です。地上の人生の終了ですが、これは世の中の一般的な宗教的理解では、既に世を去っている先祖に加えられること、そのためにこの世からあの世に渡って行くことです。よく「引導を渡す」などと言いますよね。

田村:はい。人に何かを諦めさあせるような意味で。

市川:そうですね。元来の意味は、例えば僧侶や悟りを開いた先人が、その道を歩む人に、悟りを開いて仏の境地に至ることができるように導くことを意味しましたが、葬儀と結びつき、僧侶が死者の霊に向かって別れを告げ、あの世に渡らせることを意味します。葬儀のことを告別式などと言うのは、このためです。

田村:なるほどね。では「冠婚葬祭」の「祭」は?

市川:これは祖先祭祀、つまり祖先を祭り、供養することです。代表的なものは法事で、ある人の死後3年目、7年目、13年目、17年目、23年目、27年目・・・50年目まで行ないます。

田村:大変ですね。

市川:すべての家庭でこれが文字通りに行なわれているとは限りませんが、伝統の強い地域ではなされているのではないでしょうか。ちなみに、私の生まれ育った家では、また、その近所の家でも、しっかりと行なわれていました。つまり、一つの家は、子供が生まれ、成長し、そして死んだときに、それに関わる儀式をするのですが、死んだ後もなおその人を覚えて祭る、供養する、こうして祖先は子孫に覚えられ続けます。こうして、命が受け継がれ、循環して行き、新しい命となって、また戻って来る、戻ってきてはまた流れて行く―これが「冠婚葬祭」の意味なんですね。

田村:そうなんですか。なるほどね。でも、聖書の教えでは、このような儀式は可能なのでしょうか。キリスト教信仰者がこうした儀式に参加したり、あるいは、教会がそれに似た儀式を行なうことはできるのでしょうか。

市川:冠婚葬祭の参加の仕方、留意事項は次回に話しますが、今日は冠婚葬祭を全体として捉えて、基本的な考え方を申し上げます。

田村:はい。

市川:先ほどから「命の継承」とか「循環」とか言っていますが、これは聖書そのものの根本的な教え・強調点と言わなければなりません。聖書の教えでは、神の側から言えば、命の創造・伝達(伝授)・恵与(贈与)―「神は生かす」「生かす神」―です。生かす神はさらに遡ると「生きた神」「生きている神」です。神ご自身が生きているからこそ、神が造られたすべてのものは「生きている」のです。生物学的な意味でに生きているのは人間・動物・植物・微生物ですが、思い切って言えば、無生物(石・水・空気・・・)も人や生物が生きるために不可欠な働きをしているという意味で、応用的に「生きている」と言っていいでしょう。さらに、人間は個人個人が生きていますが、それと同時に家族・地域社会・職場・様々な組織・国などで共同で生きています。人は皆、かけがえのない特別の、固有の一人であり、そして、みんなと一緒に生きています。

田村:そうですね。

市川:それだけではありません。当たり前のことですが、私たちが今ここに生きているのは、親から生まれたからですね。しかし、その親はその前の親から、その親やはまたその前の親から生まれた、つまり、祖先がいたら私たちが子孫として今いることがきる訳ですね。そして、私たちもまた将来の子孫に対して祖先になります。

田村:そういうことは普段あまり考えたことがないですね。

市川:キリスト教が西洋の宣教師によって伝えられ、キリスト教信仰の独自性が強調され、日本的な発想・習慣との違いだけが意識された結果かもしれません。勿論、この点は大事です。それがなければ、キリスト教(聖書)の存在意義はありませんから。しかし、旧約聖書にはしばしば、例えば王が死んだとき「先祖の列に加えられた」などの表現が用いられます。

田村:それは、日本で言われる祖先崇拝とか祖先供養と考え方なのでしょうか。

市川:いいえ。非常に違います。

田村:どのように違うのでしょうか。

市川:私たち生きているものは死んだ人(祖先)に関わることはできませんし、また、それゆえ、例えば祖先の運命について神に祈り願ったりすることはできません。ましてや、祖先に祈ったり願ったりすることはできません。しかし、神は永遠に生きておられますから、今生きている我々にも、既に死んだ者にも、同時に関わることができます。神は昔の人に与えた命を、私たちに受け継がせることができます。私たち人間の命は、自ら生きておられる神の創造、賜物(贈物)です。しかも単に、動物や植物のように一定の決まった仕方・形の命ではなく、文化を形成、歴史を発展させていく、ダイナミックな命として、与え、伝えられます。命は神によって、人間を通じて、継承され、発展させられるのです。

田村:では、命をこのように考えると、冠婚葬祭をどのように捉えなおせるでしょうか。

市川:いいとところに注目しましたね。聖書に立ち返るときに―こう言っては、何ですが―本当の意味で命の継承・発展としての冠婚葬祭が、世の中の捉え方よりもっと祝福された仕方で執り行えるということです。勿論、実際問題としては試行錯誤しなければなりませんが。

田村:では、かいつまんで、冠婚葬祭の聖書的原則を教えてください。

市川:かいつまんで・・・。分かりました。先ず、冠婚の「冠」から。元服に当たるのが今の成人式ですが、このキリスト教版が考えられます。子供のときに洗礼を受けた人が、大きくなって、自覚的にキリストへの信仰を告白しますが、この人たちを特別に祝福する機会を設ければいいと思います。信仰告白は、信仰上、成人なったことを意味します。それまで親を始め、教会の大人たちによって助けられ、守られて教会につながっていましたが、これからは、神様の恵みと導きの下に、自分自身の信仰と責任において信仰生活をすることになります。それから、「冠婚」の「婚」つまり結婚は、心も体も大人になっていることが大事です。結婚関係ほど、人と人との一致協力が求められる、そのために自己犠牲(謙遜、忍耐、寛容・・・)が求められるものはありません。逆に、それだけ親密で愛に満ちた、また嬉しい、楽しい人間関係もありません。愛し合っているときは素晴らしいが、一旦ボタンのかけ違いが始まると、これほど苦しい人間関係もありません。どうですか真理子さん。

田村:どうですか、先生。

市川:ウーン(笑)。

田村:何ですか、その笑いは?

市川:何でもありません。次に葬儀ですが。

田村:あらっ。

市川:いや、とにかく、結婚は命の再生産、命の拡大・増加の機会です。

田村:はい、では葬祭は如何でしょう。

市川:先ず、死ぬことは、人の地上人生の終了ですが、正しく言えば、キリストの復活の命がその人に充満するときと言うべきでしょう。死は確かに罪に対する神の裁きですが、しかし、キリスト信者にとっては、罪の裁きはキリストの十字架でなされていますから、死には刑罰の意味はありません。むしろ、地上の様々な苦しみや制約から解放され、魂の清めが完成し、キリストの復活の命が満ち溢れるのが、死のときです。世の中の死の理解と、何と違うことでしょう。それで、「葬祭」の「葬」、つまり、葬儀では先ず、人の命を創造し、地上の人生を終えさせる神を褒め称えるとき、神を礼拝するときです。葬儀は次に、その死んだ人が復活するのを確信して、その遺体を復活に向けて丁重に葬るために、その備えをするときです。遺体はその人の体であって、モノではありません。そして、葬儀は悲しむ遺族や関係者を慰めるときです。その故人の存在が消滅したのではなく、今は天にあり、やがて復活し、また、我々もいずれ天に召されるので再会できるという希望によって慰めるのです。次に「葬祭」の「祭」、祖先に関する儀礼ですが、私たちは祖先を決して崇拝しません。故人と私たちとは関わりあうことができません。ですから、崇りを恐れたりしません。しかし、故人について語ったり、個人を記念することはできますし、必要でさえあるでしょう。それは故人を礼賛するのではなく、故人を通して私たちに祝福を与えられた神様に感謝し、神様を褒め称えるためです。教会やは家庭などで、召天者記念会を定期的に催すことはいいことです。歴史を学ぶとは、先人の営みを通して働かれた神様の恵みの跡を見、その跡を辿って歩むということです。

田村:はい、市川先生、有り難うございました。

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