どこが幸いなのか

キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

新約聖書 マタイによる福音書 5章3節

坂井孝宏によるメッセージ

今お読みした御言葉は、マタイ福音書の5章より記録されている山上の説教というイエス様の一連の教えの、はじまりの言葉です。山上の説教は、古来より人類最高の倫理、道徳とも言われてきましたが、もっと大切なことは、ここにはイエス・キリストからの大胆で自由な命への招きがなされているということです。

イエス・キリストという方はまことの神にしてまことの人間であるお方であり、神が創造された人間本来の素晴らしさを、私たちに体現してみせてくれた方であると、聖書は教えます。つまり、この方の生涯は、歴史上のどの人物よりも、もっとも人間らしかったということです。イエス様は、どこまでもどこまでも自由であり続けた方でした。それは伝統や慣習からの自由であり、神の本当の思いを実現するために何者にもとらわれない自由な大胆さをもっていた。何よりこの方は、罪からの完全な自由を得ていた方です。地上に生きる私たち人間は、誰もが罪の奴隷として縛られている。しかしイエス様だけが、この罪から完全に自由な方でした。

その罪からの自由はどういうことか、それは福音書に記されたイエス様の生涯を追っていくとよく分かりますが、この山上の説教を読むことでもよく分かるのです。ここには、イエスという方がいかに生きたかが示されている。彼は自由でした。この世のくだらない価値観から自由でした。憎しみから自由でした。ねたみから自由でした。人の目を気にしてしまう愚かさや劣等感から自由でした。情欲や所有欲から自由でした。あきらめや絶望からも自由でした。ただ父なる神にまっすぐ目を向けて、健やかに朗らかに、風のように自由に大胆に地上をかけ抜いていかれた、それがイエス・キリストの生き様でした。この山上の説教には、そんなイエス様からの招きが記されているのです。あなたも自由でありなさいという招きです。

その山上の説教の、口火を切るのがこの御言葉なのです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」こう訳したほうがいいかもしれない「幸いだ、心の貧しい者たち。天の王国は、その彼らのものであるから。」ここでは、「幸いだ」という宣言がなされています。今実際にイエス様の目の前にいる、貧しく疲れ果てている者に対して、あなたは今本当に幸せなのだと、祝福してくださっているのです。それは、言われた本人がまだ気付いていない幸せの指摘です。私たちは、自分の不幸せを数えるのには敏感ですが、幸せを見出すことは苦手です。しかしイエス様は神の目で、私たちのすでに与えられている幸いに気付かせてくださる。彼の目にはいつも、私たちが見ている現実とは別の、神の希望の現実が見えているのです。

そんなイエスの自由なまなざしの下では、心の貧しい者は幸いなのです。心の貧しい者とは、自分の貧しさを知る謙遜な人です。その人は、社会的にも経済的にも何も持っていない負け組かもしれません。健康も若さも失ってしまったさみしい人かもしれません。せめて心だけでもきれいならいいですが、もう心まで醜く歪んでしまったと気づかされてしまって、自分に絶望してしまった、そんな惨めな人であります。でもイエス様は、そういうあなたが幸いなのだと言われます。なぜなら、真に砕かれた人だけが、天の国の喜びをいただくことができるからです。神の憐れみに、すなおに心を開くことができるからです。

お金、人脈、知識・・、多くのモノを抱える手は、もう手一杯で、天の国の喜びをつかむことができません。でも何も持たない手は、祈ることにふさわしいのです。その組み合わされた手の中に、無限の喜びが広がります。生きておられる神に、満たされるという、この世ならぬ喜びが広がります。イエス様は、そんな喜びへと招いておられるのです。

そんなもののどこに幸いがある?と問いたくなる方もいるかもしれません。でもイエス様の方でも、私たちに問うておられるのです。ではあなたは、まことの幸いを知っているのか?と。もし、答えに窮するようなら、イエス様の言葉に、自分を明け渡してみてはいかがですか。

関連する番組